「僕の声、全部ほかの人に替えて」
湊は朝食の皿を流しに置き、由衣のパソコンの横に上映案内を伏せた。裏まで赤い線が透けていた。
「字幕は、そのままでいいから」
画面では、小学三年生の湊が紙コップを両手で持っていた。前歯が一本なく、笑うとそこだけ暗くなる。
「声だけ替えたら、ドキュメンタリーじゃなくなるよ」
「今も違う」
由衣は空白キーを押した。止めてあった映像が動き、幼い笑い声が台所に流れた。今日、客席が最初に笑うはずのところだった。もう一度押した。
「違うって、どこが」
「僕の声、使わないで」
湊は冷蔵庫を開けた。牛乳の容器を傾け、空だとわかると調理台に戻した。蛇口からコップへ水をくむ。そのあいだに由衣は音量をゼロにした。
十一月七日、午前九時。午後五時には瀬波市民会館で、この十八分二十四秒の映画がかかる。三日前にファイルを送った。今日は会場で音と字幕を確かめ、上映後に舞台へ上がることになっている。
教室で名前を言うのに時間のかかった息子が、母親との録音遊びを通して自分の声を取り戻す。企画書にはそう書いた。最後は今年の河川敷で、湊が「僕は僕の速さで話します」と言う。
由衣は再生位置をそこへ移した。短く切り分けた音声の下に、使わなかった部分が残っている。文の途中から抜いた三秒も、その先の台詞も。
「最後のところ?」
湊は画面を見ずに水を飲んだ。
「全部」
「小さいころのも?」
「うん」
「昨日、言ってくれればよかったのに」
「昨日、初めて見たんだけど」
昨夜、暗転した画面の前で、湊は膝に両手を置いていた。「よかったでしょ」と聞くと、「もう寝ていい」と答えた。眠いのを起こして悪かったと思い、部屋へ行かせた。
夏休みには、完成したら見せると約束した。九月には、まだ並べただけだからと断った。先月、湊が机の脇に来たときには、音を直してから、とヘッドホンをかけ直した。
「嫌なところ、何分何秒って書いてくれる? 直すから」
「全部の声」
「それだと今日には間に合わないよ」
湊はコップを口から離した。
「間に合うことしか言っちゃだめなの」
スマートフォンが震えた。制作担当の榎本からだった。最終ファイルは午後三時まで。四時から機材確認に入るので、変更の有無を知らせてほしいという。
由衣は「変更ありません」と打ち、送る前に消した。
「顔もぼかせるよ。学校の子にわからないように」
「顔は僕でいい」
案内を表に返した。幼い湊の顔ではなく、作品名が赤い線で囲まれていた。二重になった線の終わりが、紙の端まで伸びている。
「僕だってわかってもいい。声だけ替えて」
「自分で思ってる声と違うから?」
湊はコップの縁を親指で拭った。
「その声だと、お母さんが僕の言ったことだって言えるから」
「言ったことしか使ってないよ」
すぐに返せた。何日も録音を聞き、言葉を選んだ。ない言葉を足したわけではない。
湊は残りの水を流しへ捨てた。
「僕の声は、使わないで」
廊下の奥で扉が閉まった。
由衣は引き出しから出演承諾書を出した。八月の日付と、宮瀬湊の署名。瀬の字だけが大きい。保護者欄には由衣の名前がある。
紙を抜いた拍子に、撮影用のカードが一緒に出てきた。河川敷で風に飛ばされないよう、裏に十円玉を貼ったものだ。取り込みを終えてから、承諾書と同じ引き出しへ押し込んでいた。由衣は文字のある面を下にして、机の端へ置いた。
契約書の下には家賃の振込控えがあった。制作報酬十八万円が入った翌日の日付だった。交通費と機器代を払い、家賃を払い、残りは日々の買い物に使った。
口座の残高を開く。今月の引き落としを引くと、五桁も残らなかった。
契約には、上映に使用できる完成品を提供すること、制作者の事情で提供できなくなった場合は受領済み報酬を返還すること、とある。ファイルは送ってある。その先を読もうとして、同じ行へ目が戻った。
春の地域記録の仕事も、この上映を見てから相談したいと言われている。
由衣は承諾書を手に立ちかけた。廊下へ出る前に戻り、契約書の横へ置いた。
完成ファイルを複製し、末尾に「修正」と付ける。音声効果の一覧を開くと、名前を伏せた聞き取り映像で使った設定が残っていた。音程を下げ、響きを変える。代役を探さなくても、これなら一箇所だけすぐに聞かせられる。
設定名は「声を守る」。二年前、依頼主に操作を説明するため、由衣がつけた名前だった。
文字を消し、「音声加工」に変えた。
幼い笑い声にも、最後の台詞にも、同じ効果をかけられる。ヘッドホンを片耳に当て、再生ボタンへ指を運んだが、先に榎本の番号を押した。
呼び出し音の間、案内の赤い線を指でこすった。インクは乾いていて、何も付かなかった。
「宮瀬です。今日の作品なんですが」
電話の向こうで、椅子を引きずる音が止まった。
「音声のことで、出演者から修正の希望が出ています」
息子から、とは言わなかった。
午前十時、市民会館の準備室で、榎本亜紀は作品名の札を並べていた。白い札が二枚、由衣の作品だけが黄色だった。
「修正版は?」
「これからです。声を加工して、本人に聞いてもらえれば」
「加工した声なら使っていい、とは?」
「まだ。自分の声を使わないで、と」
榎本は黄色い札に「本人確認待ち」と書いた。
「届いているファイルも、登録を止めるね」
「仮に入れておけませんか。直せたら差し替えるので」
榎本は白い札を裏返した。ファイル名の横に、赤鉛筆で丸が二つ付いている。
「受け取りと再生確認。二つ揃った札の作品は、操作室が上映用へ移すの。当日の係には、仮かどうかわからなくなる」
由衣の札には、一つ目の丸があった。榎本はその上から黄色い付箋を貼り、内線で三番の登録停止を告げた。
湊が加工した声を嫌がっても、元の映画はある。そのつもりで持ってきたパソコンを、由衣は鞄の奥へ押した。
「三時までなら待てる。取りやめる場合も、まず私に連絡を」
「お金の相談も、榎本さんに?」
「契約の変更と返金は相良さん。私は登録を保留できるけど、中止の決裁はできない。午後には来られるから」
由衣は予定表の「三時・最終」の下に、相良、と入れた。
机の端に、予告編の二次元コード入りの案内が積んであった。
「予告も、声を替えます」
「先に公開を止められる?」
榎本が携帯を差し出した。協力店の掲示報告だった。入口のガラスに案内が貼られている。その下で、湊の顔が動き始めた。
「そこから私のページへ行けるんですね」
「これは店の投稿の中で再生してる」
動画の隅に、由衣の管理画面にはない店の名前が入っていた。
「紹介は自由にどうぞって、返事しました」
保存して載せてくれたのだ。わざわざ礼まで送った。自分のページを閉じても、この湊はしゃべり続ける。
「削除を頼む連絡先は送るね。ほかの人が保存した分までは確かめられないけど」
「じゃあ、今日のを直しても、元は残るんですね」
榎本は案内を箱へ移した。
「残るかもしれない。でも、今日初めて来る人にまで渡す必要はないでしょう」
箱の蓋に「配布停止」と書いた紙を載せた。
由衣は予告編を非公開にした。続いて店への依頼を打つ。「修正版ができ次第、お送りします」まで書き、最後の一文を消した。上映の見通しが立たないため動画を下げてほしい、と送った。
榎本は白い札だけを持って操作室へ向かった。黄色い一枚が、進行表の三番の上に残った。
帰宅すると、湊は廊下で洗濯物を畳んでいた。
「予告、止めたよ」
黒い靴下を重ねる手が止まった。
「映画も?」
「上映用には入れないでもらった。三時まで待ってもらう」
店の投稿にも削除を頼んだこと、全部なくなったとは言えないことを話した。湊は靴下のつま先を揃え直した。
「声を加工して、試しに聞いてみない?」
「元は僕の声でしょ。だったら字幕だけにして」
由衣は廊下にしゃがみ、鞄からパソコンを出した。川面、雨樋、録音機の赤いランプ。顔の出ない素材は半分以上ある。
「文字は、そのままでいいのね」
湊は籠の縁から手を離した。
「そう言ったら、そのまま出すんだ」
「字幕だけって、今」
「最後のところ。僕、あれ言ってない」
「河川敷で言ったでしょう」
「一回で?」
蓋を開く指が止まった。
「車が通ったところは、別の録音とつないだ。そういう編集はするよ」
「知ってる。お母さんの仕事、見てるから」
「言ってない言葉は足してない」
湊は画面ではなく、由衣を見ていた。
「じゃあ、あの日、僕が最後に言ったこと、覚えてる?」
パンの袋を渡した。機材を片づけた。自転車を押して帰った。声を思い出そうとすると、完成版の、川を見て笑う顔が出てきた。
「録音、確かめる」
由衣はパソコンを閉じた。最後を元の音に戻せばいいのかもしれない。雨の映像なら、そのまま残せる。
「雨を録ったのは、楽しかったよ」
湊の声に、由衣は顔を上げた。
「録音機に上着、かぶせてくれたね。びしょびしょになって」
「あれまで嫌だったって言ってないから」
由衣は頷きかけた。
「じゃあ雨のところは、って聞かないで」
開きかけた口を閉じた。湊は籠を持ち上げた。
「文字にする前に、最後まで聞いて」
黒い靴下が片方落ちた。湊は部屋へ入り、由衣は拾った靴下を籠のあった場所へ置いた。
机に戻り、編集データを開いた。字幕の入力欄を閉じる。完成版の下には、使わなかった音声が短い断片になって並んでいた。「僕の」と「速さで」の間から抜いた箇所へ、再生位置を合わせた。
ここだけ戻して、湊に聞かせる。そのための操作なら、指が覚えている。
由衣は再生せず、元ファイルを開いた。
切れ目のない長い波形が現れた。最後の台詞の位置まで送ろうとして、手を止める。その日、何を話してからカメラを回したのかも思い出せなかった。
再生位置をいちばん左へ戻した。ヘッドホンを両耳に当て、その日の録音を始まりから聞いた。
砂利を踏む音のあと、由衣の声がした。
『じゃあ、さっきの言い方でもう一回』
『僕は僕の速さで話します』
『最初の、僕は、だけもらえる?』
『僕は』
『顔、少し上げて』
『僕は』
『ごめん、自転車。もう一回』
『僕は。……これ何回言うの』
由衣は停止を押した。
今年の九月。冒頭の教室の写真には「二〇一八年」と字幕を入れた。その下で聞こえる三つの声が、いま再生された。
昔の録音には冷蔵庫の唸りと自分の相槌が大きく入っていた。代わりに、音の澄んだこの三つを選んだ。日付を見落としたのではない。声の年まで出すと観客が迷うと思い、出さなかった。
編集画面の断片には「僕は1」「僕は2」「僕は3」とある。由衣の付けた名前だった。
続きを流した。
『それ、僕が考えた言い方じゃないんだけど』
『この前、急かされるのが嫌だって言ってたでしょう』
『それとは違う』
『いったん言ってみて。使うかどうかは、あとで決めるから』
パンの袋が鳴った。
『僕は、僕の』
川音が続き、湊が息を吸った。
『速さで話します。でも、その速さって、どれ』
『自分のペースってこと』
『今日すぐ言えても、明日はわかんないよ』
文の途中の三秒を詰め、「でも」から先は使わなかった。
そのあと、録音の由衣は風を理由に撮影を終えていた。湊にパンを渡し、包みを開けるところまでカメラを回している。
完成版の最後に置いた笑顔だった。
ヘッドホンを外すと、耳の周りが湿っていた。
「湊。元の、聞いた」
扉が開いた。湊は机まで来たが、由衣が引いた椅子には座らなかった。
「冒頭の声、私が言い直してもらったところだった。昔の声じゃないって、知ってて使った」
湊は画面を見た。
「昔のだったら、よかったの?」
由衣は返事を探した。
「本当に困ってたことはあったから、それを伝えるために」
「昨日もパンの名前が出なくて、指さしたよ。すぐ言える日もある。録音を始めてから、順番によくなったんじゃない」
「うん」
「お母さんが待ってくれたから言えた、みたいになってる。でも、あの日もずっと言い直してた」
机の端に、朝、引き出しから出したカードがあった。由衣は文字のある面を上にした。「僕は僕の速さで話します」。撮影前に、自分で太く書いた字だった。
裏の十円玉を押すと、カードの角が机から浮いた。
画面にはまだ、その日の映像があった。由衣の「もう一回」を戻し、最後の異議まで聞かせれば、観客にもわかる。教室の写真から始めず、このカードから始める。母親が作った映画に息子が異議を唱える映画になる。
由衣は音声を選び、空いた列へ引いた。
「何してるの」
指が止まった。
「私が何をしたか、見せられると思って」
「僕が嫌だって言ってるところを?」
画面の湊はパンの袋を持っていた。机の横の湊は、由衣の手を見ていた。
由衣は取り消しを押した。音声が元の位置へ戻った。
「これを出すなら、僕、何て言えば使われなくなるの」
由衣は編集画面を閉じた。
「今の話も使わない。録音も、私が説明するためには出さない」
湊は椅子の背から手を離した。
「今日の、出さないでほしい。字幕のも、代わりの声のも」
「上映を取りやめるように頼む」
スマートフォンを取った。十一時五十八分。榎本はすぐに出た。
「修正ではなく、上映撤回をお願いします。完成版を見た本人が、上映を望んでいません」
カードの文字を見ながら、由衣は続けた。
「私が頼んだ撮り直しを、昔の吃音を示す声として使いました。最後の異議も切っています」
榎本は登録を止めたままにすると答えた。相良が来たら連絡するので、撤回の申し出を文書で送ってほしいという。
電話を切ると、湊は承諾書を見ていた。
「お金、返すの」
「全部になるかもしれない」
「僕、バイト探そうか」
由衣は契約書へ手を伸ばした。朝から開いた返還条項が、湊の側を向いていた。
「探さなくていい」
「でも、僕がやめてって言ったから」
報酬が入った翌日に家賃を払った。帰りに肉と果物を買った。湊が署名したときには、返す場合のことを話していない。
由衣は契約書を自分の側へ寄せた。
「この契約をしたのも、お金を使ったのも私。一括では返せないから、分けて払えないか相談する」
「だめだったら」
三時まで、まだ時間はある。もう一度だけ見てもらえば。そう言うために開きかけた口を閉じた。
「別の払い方を相談する。出てほしいとは頼まない」
湊は引かれた椅子を机へ戻した。
由衣は文書を開き、撤回の申し出を書いた。本人の現在の意思を記した一行だけ、湊に読んでもらった。録音は添付しなかった。
送信してから、返金案を書くために新しい紙を出した。カードの十円玉が端に引っかかった。
由衣は硬貨を剥がした。薄い紙の裏も一緒に剥けた。財布の小銭入れへ戻すと、ほかの硬貨に当たって鳴った。
午後一時半、会館の小会議室で、相良は契約書と由衣の返金案を並べた。
「上映撤回は承認します。ただ、精算とは別です。契約上は十八万円の返還が原則。経費の扱いと分割は、会計に確認します」
「お願いします」
「春の発注も、いったん止めます」
由衣は返金案の端を押さえた。月一万五千円。去年から積み立てていた機材の修理代を止めても足りない。湊の通学定期を買う月には、別の仕事を一本増やす必要があった。
相良が会計へ電話する隣で、榎本は進行表を広げた。次の作品は前倒しできるが、対談相手の到着は五時。その対談だけを後半へ動かすため、ほかの登壇者にも確認している。
二時三十七分、相良が電話を置いた。
「別作品として、風景だけ五分ほど納められませんか。認められれば、その分の報酬を残せる可能性があります」
「五分」
「三時までに登録できれば。精算は後日になりますが」
由衣はパソコンを開いた。雨樋から落ちる水と、録音機の赤いランプ。ここには湊の顔も声もない。
雨音を残して川面へつなぐ。素材を二つ置くと、画面の隅に四分五十二秒と出た。
「題名は変えていただいて構いません」
相良の声に頷きかけた。これなら、上映を取りやめた映画とは違う。湊に見せても、嫌だとは言わないかもしれない。
携帯に〈雨のところだけなら〉と打った。
あの日、録音機にかぶせた上着から水が滴っていた。湊は濡れた袖を絞りながら、まだ録れてる、と笑った。
〈いい?〉と続けたところで、榎本が受話器を押さえた。
「二時四十六分。変更するなら、題名と確定尺を今ください」
あと十四分。返事が来なければ電話する。そのあと書き出せば間に合う。
由衣は、送信前の文字を一字ずつ消した。
「別作品も納めません」
「風景だけでも?」
「今日は、私だけで代わりを決めないと約束しました」
相良はパソコンから視線を戻し、撤回申請に承認の印を押した。
「精算は週明けに書面で。全額返還の原則は変わりませんが、経費と分割は引き続き確認します」
「はい」
二時五十二分。榎本が黄色い作品札の裏へ時刻を書いた。表の「本人確認待ち」は消さず、進行表へ留める。
「これは記録に残します」
由衣は、差し出しかけた手を戻した。
四時までに残りの案内を箱へ戻し、公開ページを取り下げた。協力店から届いた「動画削除しました」の返信を保存する。図書室への撤去依頼は事務局が引き受けた。
入口のポスターを剥がしたとき、榎本が紙を一枚持ってきた。上映中止は、制作者による内容と出演意思の確認が不十分だったため、とある。
「私の名前で出してください」
由衣がポスターを丸めると、榎本は手を添えて止めた。
「裏、使える」
裏返した紙に、新しい上映順が貼られた。さっきまで湊の顔があった場所へ、開場を待つ客が近づいてきた。
由衣は受付の空いた椅子を引いた。
「私から謝ります」
「何を聞かれても、湊君の話をせずに答えられる?」
客の一人が、作品名を指で探している。自分が何をしたのか説明したい。間違いを認めているところまで聞いてほしかった。
由衣は椅子を戻した。
「問い合わせ、お願いします」
帰りに牛乳を買った。いつもの一リットルを籠に入れ、修理店へ出す予定だった録音機を鞄の底へ押し戻した。
家では湊が炊飯器を開けていた。
「上映、中止になった」
「うん」
予告のページと店の投稿は下げたこと、保存された分までは消せないことを伝えた。
「どこにもないとは、言わないんだね」
「言えない」
夕食では、精算がまだ決まらず、春の仕事も止まったとだけ話した。湊は煮物の皿を寄せた。許すとも、大丈夫とも言わなかった。
食後、湊が麦茶を二つ持ってきた。
「これから話すの、映画には使わないで」
「使わない」
由衣は布巾を流しへ置き、向かいに座った。
「僕が、こ……」
困っているとき。こうやって話すとき。
口の中で用意した言葉を、由衣は出さなかった。
湊の指がパンの袋に触れた。ぱり、と鳴って、止まる。由衣は膝の上の手を開いた。時計の秒針が三つ進んだ。
「言葉、探してるとき。先に言わないで」
「うん」
「当たってても。自分で最後まで言いたい」
「わかった」
湊は袋から手を離した。
「昨日も、川のところが違うって言おうとした。でも、お母さん、よかったでしょって聞いた」
「うん」
「寝たかったんじゃなくて、部屋で考えたかった」
由衣は麦茶へ伸ばしかけた手を戻した。
「声を替えたら、僕が言ったことにはならないと思った。そしたら見せても平気かもって。でも、文字も違った」
湊は袋の口を結んだ。結び目を押し、少し緩め、もう一度結ぶ。由衣は待った。
「今日の話は、これで終わり」
由衣は頷いた。机のパソコンは閉じたままだった。
湊が冷蔵庫を見た。
「牛乳、ある?」
「買ってきた」
「明日、飲む」
由衣は麦茶を飲んだ。湊も飲み終えて席を立つまで、二つのコップを食卓に置いておいた。