美波が、依都の名前を消していた。
体育館の入口のホワイトボード。来週、初めて公式戦に出るはずの場所で、「小坂」の坂だけが薄く残った。
「そこ、わたし」
美波は黒板消しを止めた。
「岸さんに頼まれた。最後の一人、今日決めるって」
消した場所へ「小坂・瀬戸」と書く。瀬戸凪。三か月前に入った、一つ下の子だった。
「二組で八人。九人いるから」
「いつ聞いたの」
「昨日、片付けのあと」
昨夜、依都は「来週、何時集合かな」と送った。「明日聞こう」と返ってきた。同じ大会へ行けると思って、新しいソックスまで買った。
「先に言ってよ」
「わたしが決めたわけじゃないよ」
美波がペンの蓋を押した。
ほかの七人の名字にも、昨日までの自分にも、小さな丸がついていた。
「この丸、登録する人じゃないの」
美波がボードの隅のマグネットを外す。「サイズ確認済」。隠れていた文字の下に、貸出ユニフォームの番号が並んでいた。
出場者の丸ではなかった。
「店で言ったよね。試合の日に下ろすって」
「うん」
「そのとき言えたじゃん」
「仮の編成だって、分かってると思ってた」
「じゃあ、メッセージで言えばよかった」
美波はペンを置いた。
「……うん」
消すのは頼まれたからでも、黙っていたのは美波だった。
十一月八日、日曜日。入口の時計は十時十二分だった。依都は靴を脱いだ。底に貼りついていた濡れた葉が落ちる。拾って、美波の横を通らず、ごみ箱へ向かった。
「登録、今日の四時までだから」
背中に声が来た。
「知ってる」
鞄を壁際に置く。白地に濃紺の線が二本入ったソックスを、袋ごとタオルの下へ押し込んだ。
学校の女子バスケットボール部は四人しかいない。合同チームも組めず、大会の日には顧問へ体育館の鍵を返しに行った。それから半年、火曜と日曜はこの地域クラブへ通った。練習用なら、踵の薄いものから何度も買い直した。履く日を決めて買った靴下は初めてだった。
ゴール下で凪が打っていた。板の縁に当たり、球が横へ跳ねる。追って、次を打つ。
「おはようございます。今日、よろしくお願いします」
「うん」
「小坂さんと出られると思ってました。二組あるから」
依都は籠から球を取った。
「わたしも」
凪が正面を空ける。
フリースローの線より一歩内側。届く距離だった。膝を曲げると、リングの下にいる凪と目が合った。
外したら拾わせる。
一度床につき、近くまで運んで板に当てた。落ちた球を凪が渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとう」
逆側へ回ると、美波がいた。依都の足元を見てから、自分の球をついた。
初めてここへ来た日、大人たちの声に急かされ、依都は美波へばかり返した。帰り道に「ちゃんと回せてたよ」と言われた。信じられず何度も聞くと、美波は依都の掌に指で丸を書いた。
その日だけは、帰ってすぐ手を洗わなかった。
依都は球を持ち直した。今日は何をすれば丸になるのか、美波には聞きたくなかった。
十時半、岸が九人を集めた。依都は美波の隣を避け、大学生の珠里の横へ立った。
「小坂には、確定に見える出し方をして悪かった」
岸はサイズ確認の文字を隠さない位置へマグネットを移した。
「午前と午後で組み替える。最後は小坂と瀬戸が、同じ味方、同じ相手で六分ずつ二回。準備の時間も取る。ただ、確認が終わってから追加はしない」
凪と並んで頷いた。
「得点だけじゃない。三人で攻めて、三人で守れるかを見る。分からないことは途中でも聞いて」
以前も、空いたら打とうと言われた。けれど自分より確実な人がいれば、そちらへ渡した。攻撃は続いたし、返した球を褒められることもあった。
最初の味方は珠里と、社会人の千佳だった。
「左からでいい?」
「はい」
左の外側なら中央の邪魔にならない。困ったら受けて、返せる。
青いビブスをかぶったところへ、美波が赤いものを持ってきた。
「裾、出てない」
依都の背中へ伸びた手を、自分で直して避けた。
「今日、ほかの人について」
「どうして」
「いつも美波だから」
美波は依都を見た。そのまま赤いビブスを着る。
「わたしがつく」
「聞いてた?」
「聞いてた。でも、今日は依都を守りたい」
依都は指で裾を握った。名前を消した手で、今度は自分を指すつもりなのか。
「じゃあ、ちゃんと見てて」
美波は返事の代わりに頷いた。
大会と同じ、ゴール一つのコート。岸が切り替えを確認する。守備で取ったら弧の外へ球を出してから攻める。得点後は相手がゴール下から始める。
珠里が正面で球を受け取った。
依都は左へ開き、両手を上げた。美波なら自分の動きも分かっている。パスを落とさず、止めず、きちんとつなぐ。それを目の前でやればいい。
美波はついてこなかった。
中央で腰を落とし、珠里の右手を見ている。
依都はもう半歩、外へ動いた。
まだ来ない。
裾を直すときにはあんなに近かったのに。
呼びかけようとして、やめた。これだけ空いていれば、パスは受けられる。今は話さなくても、一本つなげば始められる。
靴底を床へ押しつけ、指を大きく開いた。
珠里が右へ踏み込んだ。正面の相手を肩ひとつ抜いたところへ、美波が足を出す。
「こっち」
依都が呼ぶと、球が来た。
リングが見えた。膝を曲げたところで、美波が戻り始めた。依都は球を胸まで下げ、外へ出てきた珠里へ返す。強すぎず、低すぎず、両手へ収まった。
「もう一回」
依都は頷き、手を開いた。
今度は左へ抜けた珠里の前に、美波が入った。珠里は足を止め、片手で放った。球はリングの手前をたたいた。
相手が拾い、弧の外へ出す。依都は美波を追った。パスが渡る直前に間へ入り、向きを変えた美波へ横についていく。別の相手が打ち、千佳が跳ね返りを取った。
「外!」
千佳から受け、弧を越えて珠里へ渡す。
今のはできた。美波に受けさせず、攻撃にもつなげた。
その後も三度受け、三度とも返した。一度も奪われなかった。七分が終わると、得点板は二対六だった。
岸が記録用紙に何か書く。得点だけでは決めないと言っていた。依都は息を整え、歩いてきた珠里に言った。
「次は、もっと外で受けます」
「最初の、打てたよね」
「美波が来たので」
「受けたときは、まだ離れてた」
水筒の蓋が斜めにかんだ。依都は締め直した。
「でも、ちゃんと返せたとは思ったんですけど」
「取れたよ。全部」
珠里は水筒を置き、両手を胸の前へ出した。
「小坂さんの球、いつもここに来るよね」
「はい」
「だから取って、また構えて、抜き直す。その間に美波ちゃんも戻る。わたしの前、また二人になる」
珠里は右足を引いた。さっき片足で踏ん張っていた場所へ、靴底が重なる。
「次は返す前に、わたしの前を見てくれる?」
取りやすい球まで、困らせていた。
「返さないほうがいいんですか」
「返してほしいときもある。今は、小坂さんが持つと、わたしが一度止まることが多い」
謝れば終わりそうだった。依都は水筒を置いた。
「午後、そこを見てもらっていいですか。岸さんにも」
「うん。場所を作って確かめよう」
次の組が呼ばれた。凪が依都と替わり、左端へ立つ。
最初の球を受けると、そのまま打った。
リングに届かず、美波の前へ落ちる。依都は膝の上で指を組んだ。あれを自分がやったら、次は呼べない。
凪は美波の球へ手を出して抜かれた。追う背後で、担当の選手がゴールへ走る。そこへパスが通った。
「瀬戸、球の向こう。自分の相手を見て」
凪が振り返った。依都は美波の位置を確かめた。あそこを空けないことなら、自分にもできる。
得点後の球を拾った凪が、珠里へ渡す。
「もう一回、ください」
二本目はリングの奥をたたいた。千佳が拾い、珠里へ渡す。珠里はまた凪へ出した。
依都は体を起こした。
三度目、凪が膝を曲げると、美波の手が球の前へ上がった。凪は打つのをやめ、頭の上から投げた。高すぎるパスに珠里が伸び上がる。
着地し、そのまま一歩進んで板に当てた。
入った。
パスなら、自分のほうが取りやすく投げられる。それなのに珠里の足は、今度は止まらなかった。
次の守備で、凪がまた球へ寄りかけた。岸が口を開くより先に、足を踏み直す。担当の選手へのパスを両手で受け止めた。
「取った!」
弧の外へ運ぶ凪に、珠里が手を上げた。
依都は拍手をした。掌が一度鳴り、二度目は小さくなった。凪は、言われたことをもう一つ直している。
交代した凪が隣へ座った。
「一本も入らなかったです」
依都は、守備で取れたよ、と言いかけた。
「でも次、あそこからまた打ちます。少し奥へ飛んだので」
凪は左端を指した。慰めを待っていたのではなかった。
依都は自分の両手を見た。奪われずに終えた七分のあとで、もう一度試したいことを一つも持っていなかった。
昼休み、美波が更衣室から出てきた。依都はパンの袋を持ったまま立った。
「わたしのときだけ、守り、緩くない?」
美波は水筒を下ろした。
「緩くはしてない」
「凪ちゃんには、近かった」
蓋を閉める指が止まった。
「前に、ちゃんと回せてたって言ったよね」
「うん」
「今日も同じように返した」
美波が依都を見た。
「同じだった」
依都は袋の結び目を引いた。
「前はよくて、今日はだめなの?」
美波はすぐには答えなかった。廊下の向こうで、岸が弁当の蓋を閉じる音がした。
「午後、最初は同じ組だから。そこで合わせよう」
「出してくれれば、打つ」
「出したあと、わたしも動くから」
初めてここへ来た日、美波が掌に指で書いた丸。あの日は、返せるだけで嬉しかった。美波も同じだと思っていた。
依都は袋を切り口から裂いた。
「返したあとも、見る」
美波が頷いた。その顔だけでは、何を分かってくれたのか分からなかった。
午後の組分けを呼ぶ声がした。依都は残りのパンを口へ入れた。まず珠里の前を見る。それでも分からなければ、今度は岸の机まで行く。取りやすいはずの自分の球が、味方の足を止めるところを、もう一度見せてもらう。
午後、美波から来た最初のパスを、依都は打てなかった。
凪の手が顔の横へ上がった。背を向けて美波へ返そうとすると、別の守備者に球をはじかれた。
「取る前に、こっち見て」
「見てたよ」
「受けてからじゃなくて」
「そんな一度にできないよ」
凪が手を下ろした。依都は転がった球を拾い、ラインの外へ渡した。
休憩になると、岸の机へ行った。
「午前の場所、作ってもらえますか。珠里さんが二人に止められたところ」
岸が珠里と美波を呼んだ。依都は左端へ立つ。
「相良、戻るのはいつ?」
「パスが出てからです」
珠里が投げた。依都が受けて胸へ下げると、美波の手が目の前へ来た。
「今度は下げずに、打つところまで」
二度目はリングが見えた。放った球は手前に落ちたが、美波の指は届かなかった。
岸が次に、美波を依都のすぐ前へ立たせた。珠里が中央から踏み込む。美波が振り向いたときには、もう板へ球が当たっていた。
「同じパスでも、相良がここにいるか、中にいるかで違う。今の二つは見えたね」
依都は頷いた。
「戻れるから、空けてたんだ」
「うん」
美波は否定しなかった。
「初めて来た日も?」
美波が靴先をずらした。
「そう」
依都は掌を握った。ちゃんと回せていたと言って、美波が指で丸を書いた手だった。
「あれ、取り消してよ」
「取り消さない。あのとき返せたのは、よかった」
「今は困ってるじゃん」
「今は、困ってる」
美波は珠里の球へ目を移した。
「同じ組のとき、わたし、珠里さんたちに頼んでた。依都に一回預けてって」
依都は顔を上げた。
球が来た日のことを思い出した。大人ばかりの速さの中でも、端へ出れば受けられた。美波がそうしてくれていたなら、怒っている自分のほうが間違っている気がした。
「慣れるために?」
「最初は」
美波はそこで口を止めた。珠里が球を持ち直す音がした。
「でも、返ってくる間に、自分の相手を抜くようになった。依都は必ず返してくれるから。打つかもしれないって、待たなくてよかった」
握った爪が掌に食い込んだ。
初めて来た日の美波の得点を、依都も覚えていた。自分のパスから入ったのが嬉しくて、帰り道に何度も話した。
「わたしが打つようになったら、それ、できないね」
「同じようには、できない」
美波は目をそらさなかった。
「打ちなよって言いながら、返ってくるつもりで走ってた」
依都は開いた手をジャージで拭いた。
守り方を教えてもらえば済むと思っていた。けれど味方になっても、美波は自分が打たないことを使っていた。
「じゃあ、次に返したら?」
「攻められるなら、攻める」
その答えにも腹が立った。
「打つまで返してくれるわけじゃないんだ」
「それをしたら、ほかの二人も止まる」
岸が球を受け取った。
「小坂、次にここで受けたら、何を確かめる?」
「美波が戻る前に、構えられるか」
「戻ってきたら?」
「……同じところで返して、待たない」
珠里が頷いた。
「動く先は、わたしの通るところも見てね」
岸は時計を見た。二時四十分だった。
「二十分準備して、三時から最後の確認。六分を二回ずつ。終わってからの追加はない」
依都は左端から一歩、内側を指した。
「ここで受けるのを練習します」
球が来ると、下げまいとした手が顎へぶつかった。美波が伸ばしかけた手を止める。
「大丈夫」
依都は自分で拾った。
水道で顎を冷やしていると、凪が隣へ来た。
「外すの、怖くない?」
「怖いです」
「でも、二本目も呼んだよね」
「一本目、短かったので。膝を使おうと思って」
「次は奥だった」
「腕まで強くしました。両方変えたから、どっちが余計だったか、まだ分かりません」
凪は濡れた手をタオルで包んだ。指先で押さえた場所に、四角い縫い取りがあった。
「それ、何?」
「左、右、短い、長い。休憩で触るところを決めてます。前、帰ったら外した数しか覚えてなくて」
四つの角は、どこも同じ色だった。凪は右下をつまんでから、水筒を取りに戻った。
依都は蛇口を閉めた。さっきの自分の球も短かった。けれど落ちたところは見ていない。美波が何を言うかと、その顔ばかり見ていた。
コートへ戻り、一歩内側から打った。
手前。
膝を深く使った次は奥へ跳ねた。肩まで上がったのが分かった。
美波が拾い、渡してきた。
「最後、手首が固まってる」
依都は球を受け取った。
「今は少し、自分でやる」
美波がゴール下を空ける。依都は床の継ぎ目へ足を戻した。肩を一度落としてから打つ。
左へ外れた。
「左」
声にすると、珠里が球を拾って振り向いた。
「パスからやる?」
「お願いします。同じところに」
受ける瞬間、まだ身を引きたくなった。足を置き直しているうちに、球が胸へ下がる。
依都は打たずに珠里へ渡した。
「次は足を決めて待ちます。もう一回ください」
継ぎ目をまたいで立つ。珠里の手から出た球を、今度は構えたまま受けた。
外れた先まで見てから、依都は拾いに走った。
三時、岸がタイマーを六分に合わせた。
「四回で終わり。追加はしない。登録までに二組の確認もする」
珠里と千佳が味方、美波たち三人が相手。依都は左で構えた。
一本目は右へ外れた。拾った美波が弧を越える。依都は折り返す美波とゴールの間へ入り、外へ出させた。そのパスを千佳が奪う。
「外、出ます!」
弧を越えて受け、珠里へ渡した。
次は美波に球をはじかれた。その次は返して走り、珠里の肩にぶつかった。二人が止まった隙に球を取られる。
「近い。わたしまで止めないで」
珠里が靴先で床を示した。
「半歩外。わたしの通る幅を残して」
依都はその継ぎ目を見て頷いた。
交代して座ると、鞄からソックスの袋がのぞいていた。押し込む指に、留め具が引っかかった。
凪のシュートが入る。次の守備では、球に寄りかけた足を戻し、担当へのパスをはじいた。
依都は拍手をした。凪は直している。自分が肩をぶつけた六分は、もうやり直せない。
その後、美波が正面を抜いた。凪はゴール下まで戻った自分の相手を見てから、美波を止めに出た。横へ渡され、失点する。
凪が首を振った。依都は息を吐いた。ほっとしていた。水筒に口をつけ、その顔を隠した。
次で自分の番は終わる。来週も練習用の靴下を履くかもしれない。火曜には美波がいる。何も聞かず、同じ左端へ立つ自分が浮かんだ。
二回目、最初のシュートは入った。
両手を上げた背後を美波に抜かれ、そのまま得点された。岸に名前を呼ばれ、依都は手を下ろした。
次は戻った。美波が切り返す直前、左足へ目を落とす。依都も足を運んだ。抜けなかった美波が外へ返し、相手の外した球を珠里が拾う。
依都は弧の外で受け、珠里へ渡して走った。半歩外。肩は触れなかった。
美波がついてくる。珠里が空いた中央へ踏み込んだ。
外れたが、珠里は戻りながら言った。
「その幅。次も消さないで」
残り三十秒。
左端で手を出すと、美波が離れた。さっき一本決めても、まだ珠里を助けに行く。
「打つよ」
依都が言っても、美波は中央を見ていた。
珠里が右へ踏み込む。正面の守備者の足が交差した。美波がさらに一歩寄った。
ここで受ければ打てる。
けれど珠里はこちらを見なかった。球を腰の横へ置き、美波の肩まで抜こうとしている。美波に出してもらえれば打つ、と昼に言ったときと同じように、また待つところだった。
依都は床を蹴った。珠里の進む線から半歩外へ。
「そのパス、わたしに!」
珠里が顔を向けた。球が胸へ届く。
二歩目で美波が戻った。返す相手を探すより先に、依都は右手を伸ばした。
指が球に触れた。
リングの横へ逸れる。着地した依都の前を珠里が抜けた。半歩分の幅を通り、こぼれ球をつかんで上げ直す。
ネットが鳴った。
笛のあとも、美波は依都の正面にいた。
「触った?」
「触った」
「次は触らせない」
「次も止める」
依都は頷き、コートを出た。
凪の最後の六分は立って見た。一本入り、一本外れた。美波が抜けたとき、凪は助けに出る足を止めた。ゴール下へのパスを両手で押さえる。
珠里が声を上げた。依都も手をたたいた。今度は二度とも、音が鳴った。
終了後、岸が二人を呼んだ。
「最後の枠は小坂にする」
依都は一度、唇を閉じた。
「はい」
「担当を保つ守備と、外へつなぐ判断。それに後半は、打つことと味方との距離を修正できた。得点後の遅れは直そう」
岸は凪へ向き直った。
「最後の守備はよかった。迷った場面も含め、今日全体で比べた。今回は小坂を登録する」
「分かりました。でも、悔しいです」
凪はタオルの角をつまんだ。依都には、その角が何の印だったか分からなかった。
「次、小坂さんを守っていいですか」
「うん」
「前に出ます」
「わたしも打つ」
三時五十二分。岸が送信し、受付完了の文字が出た。依都は下の組、美波は上の組だった。同じベンチではない。依都は自分の名前と、受付番号を最後まで見た。
帰り支度の途中、美波がボードの前で黒板消しを持った。
「確定に直すって」
依都は横へ立った。
「わたしの名前、自分で書いていい?」
美波が場所を空ける。候補二人の欄が消されたあと、依都は下の組の四人目に「小坂」と書いた。丸はつけなかった。岸が上に「登録済」と書き足した。
駐輪場で、美波が足を止めた。
「返せたのが嬉しかったのは本当。でも、そのままで便利だった。黙ってたの、悪かった」
依都は鞄を前籠へ置いた。
「まだ腹立ってる」
「うん」
「次から言って。わたしも聞くから」
押し込んでいたソックスの袋を、タオルの上へ戻した。
「火曜、最初からわたしについて」
「いいよ。急ぐと短くなるから、そこ狙う」
「美波は逆へ切り返す前、左足を見る」
美波が足元へ目を落とした。
「今も見た」
「言われたからでしょ」
依都は笑い、鍵を外した。
門で左右を確かめ、先にペダルを踏む。すぐ隣で、もう一台のチェーンが鳴った。