「消」の右端に白を入れると、隣の「窓」との間が開いた。
真帆は筆を浮かせた。五歩下がって確かめたいのに、廊下は段ボールを抱えた生徒で埋まっている。看板を机の向こうへ立て、首だけ伸ばした。
校門で管楽器の音が重なった。紙コップの水に細かな波が立つ。
「瀬尾先輩、電話、ここでいいですか」
一年生が箱を差し出した。名札が裏返っている。真帆は箱を受け取り、空いた手を伸ばしかけた。
「ありがとう。名札――」
「あ、はい!」
返事だけ残して走っていく。真帆は指を曲げ、筆の軸を握り直した。
「まだ乾いてない?」
柴崎航が伝票の束を置いた。
「端だけ。昨日の字、くっついて見えたから」
「取消窓口、って読めれば」
「読めなかったの」
柴崎は電話を箱から出した。真帆は筆を水に浸す。
雨予報で中庭の企画が移動になった。昨日は古い予約券を持った保護者と、変更を知らない当番が、別々の教室で待っていたという。
「中止を決めるのは各団体。ここは、誰に言ったかを残す場所」
「相談室とは違うってことね」
「四時で閉めたいので」
柴崎は菓子缶を開けた。教室番号を書いた洗濯ばさみが並んでいる。
「返事待ちの票につけます。番号は、次に返事をもらう場所。電話が通じなければ、これをつけて巡回係に渡す」
「二年三組、二個あるよ」
「昨日、二回行っても誰もいなかったんで」
「二個つけても、会えない時は会えないよ」
柴崎は一個を缶の隅へよけた。
取消票は白い上紙と黄色い控えの二枚一組だった。「取り消すこと」「確認する相手」「取消後に残る作業」。末尾に確認欄と印の枠がある。
真帆は朱肉の横の印を試し紙へ押した。
「取消済、じゃないんだ」
赤く出たのは「連絡確認」の四文字だった。
「ここで取り消してやれるわけじゃないので」
「名前より地味だね、この窓口」
「仕事も地味な方が助かります」
真帆は印のそばに丸を書いた。上紙をめくると、黄色い紙にも残っていた。机の消し屑を払ってから、硬い台紙を伝票の束の横へ置く。
九時半の五分前、整理券を抱えた女子生徒が来た。
「紙芝居、十一時半からに変わったんです。古い券、使えなくできますか」
真帆は新しい一組の下へ台紙を敷いた。
「もう配った分は?」
「二十枚くらい。放送、頼みます」
「十一時に来た人は、どこを見れば分かる?」
女子生徒は券を見下ろした。
「……教室に貼ります」
「校門にも置こうか。場所は変わらない?」
うなずくのを見て、対象欄に「紙芝居十一時開始の整理券」と書いた。女子生徒が部長へ内線をかける間に、画用紙を二枚切る。
「手元の券は時刻を直して使っていいって」
「じゃあ、小札を書こう」
机の両側から、それぞれ「十一時半」と大きく書いた。女子生徒の「半」が端へ寄り、真帆は自分の小札を隣に置いて乾かした。
「校門の分、私が持っていきます」
「渡した人の名前、戻ったら教えて。そこまで済んだら印を押すね」
背中を見送ると、柴崎が予約箱から紙を取り出した。担当者と直接話したい団体のため、前日から置いてあった箱だ。
「十三時、三津汐里」
真帆はペンの蓋を閉めそこねた。
「本人同士の話、だって」
差し出された紙には丸い字があった。
真帆に代わりに決めてもらうのを、やめたい。
「これ、私の名前が違う欄に入ってる」
「でも、誰のことかは分かる」
「個人の話も受けるの?」
「学校の記録にはしません。十三時なら俺が交代できるから、そこの小机で話すのは構わないです」
柴崎は窓際を指した。
「休憩が終わったら戻ってください。四時まで二人分の当番しか組んでないので」
真帆は予約紙を裏返した。
「取消票も、学校の用件だけ?」
「記録に残して印を押すのは。書き損じなら、ただの紙ですけど」
柴崎は端の折れた一組を裏紙の箱へ入れた。
真帆は鞄を膝に載せた。底の封筒から、県外の職業訓練校の案内がのぞく。体験実習には、もう申し込んである。その上に薄い便箋が重なっていた。
駅前。二人。卒業したら。
下の方には汐里の丸い署名をなぞった跡がある。「汐」のさんずいだけ、少し離れていた。
自分が降りたら、残りたいと言っていた汐里はどうするのか。取り消すものを受け取る机なら、この便箋も出せる気がしていた。それなのに、汐里から先に別の紙が来た。
予約紙と便箋を引き出しへ移す。案内は封筒の奥へ押した。
「書いたの、真帆?」
汐里が看板の前にいた。延長コードを抱え、落ちかけた一巻きを肘で押さえている。
「うん。今、直したとこ」
「遠くても分かるね」
汐里は少し離れて眺め、それから体育館へ向き直った。
予約、読んだよ。その一言で足を止められるのに、真帆は垂れたコードを指した。
「それじゃ引きずるよ」
立ち上がって、ほどけた部分を持ち上げる。
「ありがとう」
礼を言われて、真帆は腕一本分、余計に引き受けた。汐里は束を抱え直し、その分も自分の腕へ戻した。一度膝を曲げて重さを受ける。
「じゃ、あとで」
体育館の扉が開き、誰かを呼ぶ声が漏れた。汐里が返事をする。真帆の知らない名前だった。
指の腹にコードの埃が残っていた。真帆は椅子へ戻り、引き出しに触れる前に濡れ布を探した。
爪の脇を拭っていると、料理部の男子が空の台車を押してきた。
「展示用の皿、十一時までに取りに行くんですけど、揚げ物の担当を抜けられなくて」
真帆は取消票を開いた。
「運ぶだけなら、二組の藤野さんが――」
担当者の欄へ鉛筆を向けると、柴崎が洗濯ばさみを置いた。
「名前は、返事をもらってから」
「昨日、午前は暇だって言ってたけど」
二組へ電話をすると、藤野は欠員の出た救護当番に入っていた。受話器を戻す間、男子は台車の車輪に挟まった紙テープを靴で外していた。
「部長に聞いてきます。借りるって決めたの、部長だし」
「どこにいる?」
「販売の一組です。自分から電話します」
真帆は連絡待ちの欄に「料理部部長・二年一組」と書いた。書きかけた藤野の「藤」を消すと、紙が薄く毛羽立った。
「俺も少し抜けます」
「交代、まだだけど」
「弁当の受け取り、十時までだった」
時計は十時十分を指していた。柴崎は腕章を押さえて走っていった。
料理部からは、部長が皿を運ぶと電話があった。準備室の先生にも伝えたと聞き、一組の洗濯ばさみを外す。その後も景品の交換、展示場所の変更と依頼が続いた。返事の来た票を重ねている間は、引き出しを開けずに済んだ。
十一時半過ぎ、小田七海が大判の紙を抱えて来た。
「三津先輩、一時にこちらへ来ますか」
「うん。照明のこと?」
「最後の公演、立ち位置が変わるので、器具を動かしていいか聞きたくて」
「昼は空いてると思う。体育館に行けば――」
「十三時までは作業を入れないでって、先輩から言われてます」
真帆は時計を見た。まだ一時間以上ある。汐里がその間どこにいるのか、七海には聞けなかった。
「じゃあ、図を預かろうか」
広げられた紙には、舞台の端から矢印が伸びていた。汐里の字で「顔を上げた時、直接入る」。そばに赤い靴の形が描かれている。
「この役の人が眩しいの?」
「それ、三津先輩です」
真帆は小さな靴を見直した。
「靴の先をテープで囲って、私が客席から調整しました。先輩、できたって言うまで動かないんです。こっちがまだですって叫ぶと、手だけ上げて」
家で猫背になって本を読む汐里なら、すぐに浮かぶ。舞台で光を受け続ける姿は知らなかった。
「こういうの、家でも描いてる?」
「私は家には行ったことないので」
「あ、そうだよね」
七海は変更したい箇所を鉛筆で囲んだ。線の切れ目に小さく「返事待ち」と書く。
「これ、消さないで渡してください。先輩が見て、よければ囲みを閉じるので」
「丸じゃ駄目なの?」
「前に、染みを丸だと思って動かしかけたんです」
紙の端には、乾いた茶色の輪があった。真帆はそこを避けて図を畳み、伝言の束ではなく、汐里の予約紙に重ねた。
昼食のパンを開けたところで、母から電話が来た。
『塗装店の奥さんからね。春から手伝う曜日、そろそろ相談したいって』
「まだ決まってない」
『曜日が?』
「春からのことが」
向こうで引き出しが閉まった。
『町にいることは決めたって言ってたでしょう。お父さんの通勤が変わるかもしれないから、朝、車をどう使うかって話になってるの』
「自転車でも行けるし」
『雨の日もあるでしょう。お店も人数で仕事を組むんだから、相談するなら早い方がいいよ』
真帆は鞄から封筒を引き出した。体験実習の案内にある集合場所を、親指で隠す。
「帰って話す。ちゃんと」
『分かった。お昼、食べてね』
指を離すと県外の駅名が現れた。乗り換えは二回。申し込んだ日に調べて、もう覚えている。
十三時の五分前、柴崎が戻った。
「小机、空けてあります。休憩が終わったら声をかけます」
パンの袋を閉じ、引き出しから便箋を出した。
汐里は時刻ぴったりに来た。肩の鞄から、照明に使う色付きの薄い板がのぞいている。
「七海さんから、これ」
真帆が図を渡すと、汐里は机で開いた。囲みを指でたどり、鞄から鉛筆を出す。
「ここなら届く」
切れていた線をつなぎ、七海の名前の横へ「点検で合わせる」と書いた。図を畳んで鞄に差す。その手が空くのを待って、真帆は言った。
「お店のことなら、もういいよ」
汐里は椅子の背に手をかけたまま止まった。
「何が、もういいの」
「約束。県外に行きたいんだったら、気にしなくていいから」
返事がない。そこまで言えば座ってくれると思い、真帆は続けた。
「私は残れるし。二人じゃなきゃ絶対できないわけじゃないし、汐里が困るなら」
鞄の金具が机に当たった。
「私がどこへ行くか、まだ言ってない」
廊下を厚紙の冠をかぶった生徒が通り、こちらをのぞいた。真帆は膝の便箋を伏せた。「卒業したら」だけが封筒からはみ出した。
「でも、お店の約束があるから」
「私、まだ何も話してないよ」
受付の電話が鳴り、柴崎が団体名を尋ねた。
汐里は椅子から手を離した。帰ってしまうのかと真帆が腰を浮かせると、その手は窓際の小机を指した。
「あっちでいい?」
「……うん」
真帆は封筒を持って立った。汐里の鞄から、閉じた鉛筆の囲みが少しだけ見えていた。
窓際の小机には、丸めた養生テープが残っていた。真帆が端へ寄せると、汐里は鞄を足元へ下ろした。
「予約に書いたの、お店のことじゃないんだ」
「じゃあ、何を」
「面談の前、先生に言ったでしょう。私は人が多い所が苦手だから、地元がいいって」
「進路の紙、まだ書けてなかったから」
「書けてなかった。でも、地元にするとは言ってない」
受付で柴崎が教室番号を繰り返した。真帆は膝の封筒を両手で挟んだ。
「照明の講習も、午前だけ参加しますって伝えたでしょう」
「あの日、朝から仕込みだったし。帰りのバスでも寝ちゃうくらい疲れてたじゃない」
「午後に機材を触れたの。そこに出たかった」
「嫌だったら、その時言ってよ」
汐里は机の角に爪を置いた。白く欠けたところを、一度なぞった。
「言う前に、先生が分かりましたって言うんだもん」
「あとからでも」
「真帆が隣にいるところで、違いますって?」
真帆は靴を椅子の下へ引いた。先生の前でも、このくらい近くに座っていた。
「時計屋さんの作文、覚えてる?」
汐里がうなずいた。転校してきたばかりで、発表の二行目から声が出なくなった日だった。真帆が横から続きを読んだ。
「あの時は、助かった」
「あの時だけ?」
汐里の爪が止まった。
「その後も。でも、毎回じゃない」
封筒の角が膝から滑った。押さえると、中の案内まで折れた。
汐里は鞄から時計を出した。
「一時四十分には点検に戻る。続き、また今度にする?」
帰ってからなら、言葉を選べる。真帆はそう思った。明日はこの机もなく、汐里に渡す紙だけが、また引き出しに残る。
「今、話したい」
汐里は時計を二人の間に置いた。
「講習、帰りたいんだと思ってた。……ごめん」
短いうなずきが返った。許してくれたのか聞きたくなって、真帆は便箋を出した。
卒業したら同じ町に残る。駅前の空き店舗で、昼は真帆の看板工房、夜は汐里が照明をする小劇場を始める。午前十時開店、午後九時閉店。
「十一時間」
汐里が読んだ。
「交代なら、できると思ってた」
「私、昼は寝てるかも」
定休日の欄には長い波線がある。土曜も日曜も開けたいと、二人とも譲らなかった跡だった。
汐里も同じ文章の紙を出した。「看板」の「板」に、消して書き直した跡がある。
「原本、まだあったんだ」
「真帆のも」
「窓に貼って写したから、さんずいが離れちゃった」
あの時は暗くなる前に済ませようと、ガラスに額がつくほど近づいていた。二枚を並べると、汐里の署名だけが真帆の紙で少し傾いている。
汐里が原本を裏返した。
縦長の四角に六つの丸。隅には「非常口」。真帆も自分の紙を裏返したが、こちらは白かった。
「店の図?」
「劇場」
「この濃い丸は?」
一つだけ何重にも囲まれていた。そこから舞台へ細い線が伸び、途中に「頭より上」とある。
「私の席。最初、お客さんで全部埋めちゃったから」
「六人しか入らないのに、一人減らしたんだ」
「誰かが灯りを動かさないと」
真帆は濃い丸へ指を寄せた。客席だと思ったそこに、汐里が座っている。
図の端には、小さく「灯りだけの日、百円」と書いてあった。
「これ、何?」
「役者が見つからなかった時」
「誰も出ないの?」
「灯りはつくよ」
真帆は笑いかけ、やめた。汐里は図を見ていた。空っぽの舞台を、どんな順番で照らすつもりだったのだろう。
「百円、安すぎない」
「そこは、まだ考えてなかった」
汐里は原本の横に募集要項を開いた。客席から見上げた照明器具の写真が、便箋の舞台に重なった。
「ここに願書を出そうと思ってる。県外だけど」
実習期間と授業名に線が引かれていた。
「二年目に外の劇場へ行けるの。学校の舞台だけじゃなくて、広さの違う所でやってみたい」
「人が多い所は?」
「苦手。でも、客席に何人いたら、どう照らすのか知りたい」
写真の奥には、数えられないほど席があった。
「じゃあ、私が残らなくても」
汐里の指が募集要項の端をこすった。返事を待つ間に、真帆は自分の言葉をもう一度聞いた。
「……私も、行きたい所がある」
封筒から案内を抜くと、角が引っかかって小さく裂けた。
「看板の文字を、下書きから描きたい。輪郭を直すだけじゃなくて」
広げた紙の折れ目を伸ばす。さっき膝で挟んだところが、なかなか平らにならない。
「大きい字って、近くでよくても離れたら間がおかしくなる。今のままじゃ、店の名前の一字も最初から任せてもらえない」
「体験実習?」
「来月。もう申し込んでる」
裏には教材費、寮の机の広さ、筆を洗う場所、と質問を書いてあった。汐里が顔を寄せた。
「そんなに調べてたんだ」
「うん」
言ってから、真帆は裂けた角を戻した。封筒にはしまわなかった。
「塗装店にも話さなきゃ。春から町にいるって、私が言ったから」
「私も、家にはまだ学校の名前しか言ってない」
受付で柴崎が誰かにペンを貸した。汐里は時計を見て、募集要項の余白へ三つ、質問を書いた。
「今日みたいに、次もすぐ言えるかは分かんない」
真帆は返す言葉を探した。汐里はその間に番号を振り終え、紙をこちらへ向けた。
「電話で聞くんだけど。抜けてないか見てくれる?」
真帆は自分の案内の上に、その紙を受け取った。
汐里の質問を読み終え、真帆は募集要項を返した。体育館から開演十五分前の放送が聞こえる。一時四十分まで、あと七分だった。
机に残った二枚の便箋をそろえる。
「これ、一緒に取り消してもいい?」
汐里は原本を引き寄せ、裏を向けた。六つの席と非常口が現れる。
「約束はやめる。でも、これは取っておく」
真帆は重ねかけた手を戻した。濃く囲まれた照明の席は、汐里の指の下にあった。
「じゃあ、取り消すことだけ別に書こう」
柴崎の通話が終わるのを待ち、裏紙箱の用紙を一組もらった。
「持って帰ってくださいね」
「うん」
小机へ戻り、受付番号と印の枠を線で消す。上の余白に「私用」と書いた。
対象欄は「卒業後、同じ町で共同出店する取り決め」。汐里が途中を指す。
「進路上、って入れて」
字を詰めて書き足した。残る作業には、家族と学校へそれぞれ希望を伝えること、塗装店へは真帆が説明することを書く。
「謝るのも、ここに書く?」
ペン先を空いた行へ向けると、汐里は首を振った。
「お店をやめることには、いらない」
真帆は空欄を斜線で閉じた。空き店舗には借りる相談もしていない。返金も返却もなく、知らせる相手の名前も増えなかった。
二人で署名し、上紙をめくる。黄色い控えには最初の一行しか写っていなかった。
「台紙、どこ?」
二枚の間から硬い角がのぞいている。
「下の紙、まだ出店するんだね」
「待って。今やめるから」
汐里が吹き出した。真帆は台紙を抜き、同じ文字をもう一度たどった。小さく足した「進路上」まで写ったのを確かめる。
「これで、いい?」
「うん」
白い紙は真帆が、黄色い紙は汐里が持った。便箋もそれぞれの鞄へ戻す。汐里は原本を折る前に、劇場図の濃い丸を一度指で払った。
受付へ戻ると内線が鳴った。
『三津先輩、片付けにも出られますかって、聞き忘れて』
七海だった。
「汐里は四時まで――」
鞄を肩にかけた本人と目が合う。真帆は受話器を差し出した。
「七海さん」
汐里は受け取り、体育館の方を見ながら話した。
「出られるよ。照明の点検が終わったら帰るけど。工具は私が戻すね」
真帆は次の依頼者へ、整理券を置く場所を示した。
四時になっても、確認待ちは二件残った。椅子の返却数と、展示の案内撤去。柴崎と一本ずつ電話をかけ、票へ相手の名前を記入する。
最後に二年三組の洗濯ばさみを外した。缶の隅には、朝よけたもう一個がある。真帆は二つを並べた。
「二回行くより、電話が早かったね」
「来年は電話番号も書かせます」
柴崎は用紙の見本の端へ、小さく書き込んだ。
真帆は看板の紐をほどいた。
「これ、裏を練習に使ってもいい?」
「どうぞ。来年は来年で作るので」
壁へ立てかけ、携帯電話を持って校庭へ出た。潰した空箱を運ぶ列から離れ、母を呼び出す。
『夕飯、何時になる?』
「七時には帰れる。それと、春からのことで」
体験実習に申し込んだことを話した。向こうで食器の触れる音が止まる。
『日程、帰ったら見せて。塗装店には、あなたから電話できる?』
「できる。相談の時間、もらう」
『じゃあ、車のことはそれからね』
電話を切っても、七時までの仕事は残っていた。
校舎へ戻ると、「消」の字はすっかり乾いていた。看板を持ち上げる。朝に塗り足した白は、廊下の端からでも見えた。
十一月の朝、駅の待合室で汐里を見つけた。
「今日だったんだ」
隣に座り、案内を見せ合った。学校も乗り換え駅も違う。汐里の列車が先だった。
時計を見上げた襟に、細い糸が残っていた。
「後ろ、値札の糸」
「え、取ったのに」
汐里は首の後ろを探り、何度か空をつまんだ。
「鋏ある? 切ってくれる?」
真帆は裁縫道具を出した。汐里に襟を引いてもらい、小鋏の先で糸を一本切る。切れ端を包む紙を探すと、汐里が弁当袋から海苔の包み紙を出した。
「もう食べたの?」
「まだ。おにぎりに巻いてから捨てようと思って」
膝の上で包みを開いたが、海苔がない。袋をのぞき、底から平たい袋を引っ張り出す。
「あった。潰さないように下にしたんだった」
「私は卵焼きが崩れた」
「ご飯に載せれば?」
「もう載ってる」
汐里が笑い、おにぎりをしまった。列車の案内が鳴る。
「写真、撮れたら見せて」
「撮っていい所があったらね」
紙袋を抱え直し、汐里は改札へ向かった。真帆はベンチで、自分の列車を待った。
乗車してから、鞄の脇に入れてきた練習板を膝へ置いた。文化祭の看板を、課題用の寸法に切ってもらったものだ。表には「取消窓口」が途中まで残っている。
塗装店には自分で電話をかけた。春の仕事は体験実習の後に改めて相談する。その電話の最後に、店名を課題に使っていいか尋ねると、いつも缶に貼っている名前の見本を用意してくれた。
真帆は板を裏返した。
定規で横幅を測り、左右に余白を取る。見本の文字数を数え、鉛筆で小さな区切りをつけた。列車が動き出し、一つだけ線が斜めになる。
消しゴムでその線を消し、板を窓枠から離した。
店名の最初の一字を、空いた面へ薄く書き始めた。