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幽霊屋敷、生活音あり ・ AI BunCho 公式

第1話幽霊屋敷、生活音あり

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2026/11/02 公開・7,513字

菜穂が玄関を開けると、祖母が天井から逆さに下がっていた。

「どう。いないように見える?」

「かなり、いるように見える」

 房江は前掛けの裾を顔から払った。

「今日の人が借りてくれれば、売らずに済むんだろ。幽霊の大家なんて、静かな物件の邪魔じゃないか」

「天井にいる大家は、もっと説明しづらい」

 下りようとすると、頭は鴨居を抜けたのに、前掛けの紐が引っかかった。菜穂が踏み台へ手を伸ばす。

「危ない。私が外すよ」

「じゃあ、お願いします」

 房江は紐をほどいた。七十二まで生きて、死んで九年。内見の支度は、自分を片づけるところからだった。

 食堂には五脚の椅子があった。菜穂が一脚に鞄を置き、紙を出す。

「久世律さん。自宅で音の編集をする人。詳しい希望は」

「静かにすればいいんだね。受験生だって置いた家だよ」

 紙が広がる前に、房江は台所へ向いた。

「源六、今日は茶もなし」

「その受験生に、夜食の鐘を鳴らしたよね」

 菜穂が背中へ言った。

「あれで受かった」

「浪人した」

「次の年に受かった」

 源六は空の急須を抱えていた。

「寒かったろう。座れ」

 菜穂へ椅子を引いた途端、割烹着が白く濃くなった。透けていた戸棚の木目が見えなくなる。

 こぽ、と湯を注ぐ音がした。

「お湯は私が沸かすね」

 菜穂がケトルを出す。源六の急須からは何も出ない。

「今日は、それもやめておくれ」

 房江が言うと手は止まった。音は続く。

「手だけじゃない。飲ませようと思うのも」

「冷えておったら」

「私だって気になるよ」

 源六は菜穂から目をそらし、戸棚の節を睨んだ。ようやく音が消え、割烹着の向こうに木目が戻った。

 階段が、たん、たたんと鳴った。

「歓迎の踊りは何分?」

 絹代が手すり越しに尋ねる。

「零分」

「短いね」

「ないってこと」

 柱時計の小窓も開いた。

「内見は午後二時。現在十一時四十二分。ただし三分進めてあるので」

「定吉、説明はいらない」

「先に申さないと、あとで信用に関わります」

 房江は食堂へ三人を集めた。定吉は時計から首だけ出した。

「今日は全員、おとなしく死んでいておくれ」

「客が来るのに?」

「来るから」

 誰にも用を向けなければ、家の隅で薄れていられる。歓迎や世話を始めた途端、姿も音も出てしまう。客のない今朝は静かだったのに、菜穂が来ただけでこの有様だ。

 房江は戸棚から木札を出した。

『昼寝中・起こさないで』。

 夜勤の下宿人が使っていた物だ。

「これを掛けておこう」

「お客さんを寝かせるの?」

 絹代に聞かれ、房江は自分の首へ掛けた。

「私を」

 源六が裏返す。

『食事は残してください』。

「裏は見ないでおくれ」

「寝ていても注文はするのか」

「私の札じゃないよ」

「私たちのこと、先に言わないの?」

 絹代が菜穂を見た。

「まず部屋を見てもらって、それから説明する。ただし、音に違う理由をつけるのはなし」

「出さなきゃいいんだ」

 房江は札を外した。

「時計は動かしていいだろう」

 定吉が文字盤へ手を添える。

「喋らなければね」

「止められると、誰も時刻を聞きに来ませんので」

 小窓が半分閉まった。房江は振り子が動いているのを確かめた。

「時計まで隠しゃしないよ」

 小窓が少し戻った。

 菜穂は、まだ読まれていない希望の紙を脇へ置き、修繕見積書を並べた。雨樋、屋根の部分補修、電気設備の点検。最後に売却相談の封筒が出た。

「明日の朝には、売る話を始めるか決める。解体して土地を使う前提の相手だから」

 房江は封筒へ伸ばしかけた手を止めた。

「修理代は足りるのかい」

「予定の分は積立がある。でも空き家の税金と点検費は私の給料。来年も同じにはできない」

「また下宿にすれば、八人」

「八人分の水漏れの電話、仕事中には取れないよ」

 菜穂が手帳を開いた。土曜の欄に、樋の立ち会い、畳の搬出、掃除、と小さな字が詰まっている。

 房江は見積書を引き寄せようとした。指が紙に沈んだ。家の椅子や釜には触れるのに、菜穂が持ち込んだ物はつかめない。

「一棟なら、日々の管理は住む人に頼める。私が来る日も決められる」

「来たくないわけじゃ、ないんだね」

「来ない日もほしい」

 房江は手帳から手を引いた。

「じゃあ今日は、掃除は私らがやる。あんたは書類を頼む」

 菜穂は封筒を見積書と揃え、空いた椅子に座った。

 窓が開き、十一月の風が五脚の椅子の間を抜けた。

 房江は四脚を壁際へ寄せ始めた。家の椅子は、生きていたころと同じ重さでついてくる。

「これもか」

 源六が自分の椅子に手を添えた。

「一人で借りるなら、広いほうがいいだろう」

 絹代も一脚を運んだ。菜穂は書類を持って立ち、最後の一脚を空けた。

 房江はその背をつかんだ。座りかけてやめ、客の側へ少し引いておく。

「あと二時間ある」

 前掛けを結び直し、菜穂を玄関へ促した。

「まず、いらっしゃいを言わない練習からだね」

菜穂が玄関を開け直した。

「こんにちは」

「はい、いらっしゃい。寒かったろう」

 房江は口を押さえた。

 二度目は黙れた。代わりに急須と階段が鳴り、時計が「遠いところを」と言った。

「一人ずつ失敗してくれる?」

 房江は源六に献立帳の誤字探し、絹代に靴紐の結び直しを命じた。

「定吉は、声を出さずに秒を数えて」

「私を呼ぶときは?」

「今日は呼ばない」

 小窓が閉まりかけた。

「用があれば呼ぶよ」

 隙間から頷く顔が見えた。

 房江は食堂脇の押し入れへ入った。菜穂が盆へ湯飲みを載せる。

「その縁の欠けた」

 言いかけて口を結んだ。菜穂は取り替え、戸を閉めた。

 二時ちょうど、久世律が来た。小さな鞄と畳んだ三脚を持っている。

「床の音も確認したいので、スリッパなしでいいですか」

 厚い靴下に履き替え、廊下を三歩進んで止まった。

「冷蔵庫は動いていますか」

「いまは切っています」

「換気扇をお願いできますか」

 低い唸りが押し入れまで届いた。律は壁へ近づき、離れ、録音機を三脚に据えた。

「確認用に録っても?」

 菜穂が頷いた。

 階段で靴の金具が一度鳴った。

 律が見上げ、絹代が足を抱えた。房江も膝を動かすのをやめた。

 換気扇を回したまま、二人は旧帳場へ入った。道路工事が続いた年、夜勤の下宿人のために内扉を足した部屋だ。

「内窓も閉めて試せますか」

 留め具が鳴り、扉が二枚、順に閉じた。

 二人の声が消えた。

 房江は肩を下ろした。あの大工には高いと言った。今なら、あの請求書にも頷いてやれる。

 源六が押し入れへ来た。

「誤字がない」

 房江はもう一度探せと手を振った。

「茶ぐらい出してもよかろう」

 首を横に振る。

「客が自分で喉の渇きを言うとは限らん」

 源六は急須を戸棚へしまい、両手を膝の下へ入れた。

 こぽ、と鳴った。

 房江は両手を振った。源六は目をつぶった。

 こぽこぽ、と続いた。

 旧帳場の外扉が開いた。

「いま、水の音がしましたが」

「配管です」

 菜穂が答えた。

 房江の手が止まった。

「お湯を使っているんですか」

 菜穂は台所を見て、首を振った。

「すみません。配管ではありません。今の説明は間違いです。この家にいる者について、お伝えすることがあります」

 律は録音機を止めた。

「その前に、同じ音をもう一度聞けますか」

 房江は源六を指した。源六は空の両手を見せたが、律が食卓へ来ると、椅子を譲ろうと腰を浮かせた。

 こぽ。

 律が止まる。源六も止まる。

「そこに座ってみていただけますか」

 菜穂が座った。音はしない。

 律が代わると、右脇で勢いよく湯が注がれた。

 一歩左へ寄れば、音も左へ移った。

「ついてきますね」

「……はい」

 菜穂が答えた。

「家の音を聞きに来たのに、音のほうが僕を見ています」

 源六は困り果て、食器棚から木札を出した。昔、下宿の食堂で使った『お茶はセルフで』だ。自分の胸へ掲げる。

 音が止まった。

 房江は思わず戸を開けかけた。

 律が首を傾げる。

「終わりました?」

 源六は嬉しそうに頷き、客へ湯飲みの場所を示した。

 こぽこぽこぽ。

 房江は額を戸につけた。セルフの案内まで給仕になるのか。

 律が録音機を鞄へしまった。

「音の出方は気になります。でも、住めるかどうかとは別です」

 菜穂が頷いた。

「説明を聞いていただけますか」

「何が出していて、止められるのか。それが分からないうちは、候補には戻せません」

 房江は敷居へ膝を進めた。

 売却相談の封筒が、食卓の端に見えた。

 自分が出れば、音の主は分かる。止められるのかと聞かれたら、何と答える。

 戸を握る指に、木の角が食い込んだ。

 柱時計が一つ鳴った。

「半です」

 定吉の顔が文字盤の下から出ていた。

 律が振り向く。

 定吉は口を押さえ、それでも指の間から付け足した。

「これは時刻であって、茶の追加ではありません」

「今、時計が喋りました?」

「はい。亡くなったあとも、この家に住んでいる人たちです。時計の中にも一人」

 菜穂は玄関への通路を空けた。

「お帰りになっても大丈夫です」

 源六は木札を下ろした。絹代は靴を抱えたまま動かない。

 定吉だけが律の腕時計を覗いた。

「なお、こちらは三分進めてありまして」

「定吉」

 菜穂が呼ぶと、小窓が止まった。

「いま、合わせて」

 定吉は文字盤へ手を戻した。長針が三目盛り下がる。律が腕時計を見せ、菜穂も頷いた。

 小窓は開いたままだった。

 房江は戸の隙間を狭めた。

 律の靴下が廊下を擦る。

 足音は玄関へ向かわず、柱時計の前で止まった。

「もう一度、お話しいただけますか」

 律が頼むと、柱時計の小窓が大きく開いた。

「ただいま、正しい時刻へ合わせました。今後は文字盤どおりに」

「定吉さん、そこまで」

 菜穂が手を上げた。律は鞄を指した。

「録音は止めています。声を勝手に使ったりしません。ただ、面白い音と、住める家は別です」

 房江は戸を握り直した。

「今のところ、引っ越し業者には連絡できません」

 その声は押し入れにも届いた。

 房江は敷居を越えた。

「大家をしていた房江です。隠れていて、ごめんなさい」

 頭を下げると、前掛けの紐が膝へ落ちた。結び直す間、誰も話さなかった。

「湯を注いでいたのは源六。階段にいるのが絹代。時計が定吉。私を入れて四人です」

 絹代が靴を抱えたまま会釈した。

「お茶は、飲む?」

「いただきます」

 菜穂が台所へ立った。

 房江は壁際から椅子を戻した。源六は客の隣へ来たが、急須を背中に隠した。

「階段の一音にも気づいたんだね。仕事どころじゃないだろう」

「あれは、誰が帰ったのかと思ったんです」

「帰った?」

「実家が旅館で。足音で家族とお客さんを聞き分けていたので」

 律が携帯電話を見せた。子供が座布団を運んでいる。積みすぎて靴しか見えない。

「僕です」

「撮る前に止めてやればいいのに」

「母も写真を見て、そう言いました」

 菜穂が茶を置くと、律は両手で湯飲みを包んだ。

「今の部屋は、誰も帰ってこないのに、隣の設備だけ一晩中働いています。低い振動が編集する音に混じる。止まったかと思うと、また始まる」

「それで、静かな家を」

「静かな仕事部屋を。そこを出たら、台所が動いているぐらいが好きです」

 房江は源六を見た。急須が背中から少し出た。

「ただし、僕の横で沸くのは困ります」

 急須が引っ込んだ。

 菜穂が朝の紙を広げた。

『録音・編集に使える静かな一室が必要』。

「私、静かな家を探してる人、としか言わなかった」

「その先を聞かずに、茶を止めに行ったんだよ」

 房江は続きを読んだ。作業時間、通信環境、運ぶ机の寸法。机はもう、ここへ入るか測ってもらうのを待っていた。

「では、タップは?」

 絹代が階段から降りてきた。

「普段のを三段、お願いできますか」

 律が旧帳場へ入り、扉を二枚閉めた。

 絹代が踊る。食器棚の硝子が細かく鳴った。

 房江は戸口へ寄った。

「どうだい、これなら」

 内扉、外扉の順に開いた。

「今、入りました?」

「ここにいたよ」

「耳元で声がしました」

 律は部屋の中の椅子を、扉から遠ざけた。

「もう一度だけ、お名前を」

「房江だよ」

 返事をした途端、律がヘッドホンを外した。

「椅子を動かしても同じです。扉の外から聞こえるんじゃない」

 房江は二枚の戸を見た。あれだけ払ってつけた戸を、自分は開けもせずに通っていた。

「私の声が、いちばん大きい?」

「はい。踊りよりも」

 源六が急須を自分の腹へ押しつけた。

「黙っておればいい」

 房江は頷きかけた。律は首を振った。

「僕も、ずっと皆さんを見張って仕事はできません」

 食卓の紙の上で、机の寸法が途中まで隠れた。

「踊りだけでも、直してみていい?」

 絹代が手すりを離した。片腕を広げ、一段目でふらつく。房江は反射的に手すりを押さえた。

「房江さんも離してください」

「私まで伴奏だったのかね」

 二人が離れると、次の三段では硝子が鳴らなかった。

 律は扉を閉めて聞き直し、戻ってきた。

「今のほうが小さいです。昼間で、録音と重ならなければ」

「録る時間を、先に教えてくれる?」

「前の日に食堂へ書けます」

 絹代は靴の金具を指で拭いた。

「休演にも予定表ができるんだね」

 菜穂が鉛筆を出した。

「仕事中は、入らない、呼ばない。それで試せますか」

「返事もしない、です」

 律が房江を見た。

「電話で僕が、お元気ですか、と言っても」

「元気だよって、答えるね」

「納品物に大家さんの近況が入ります」

 源六が顔を伏せた。房江も笑いかけたが、律の手は鞄の持ち手に掛かっていた。

 菜穂が物件案内を畳んだ。

「内見はいったん終わりにしましょう。事前にお伝えできなかった条件です。断っていただいて構いません」

 房江の後ろには、売却相談の封筒があった。

「静かな家、という説明は取り下げます」

 菜穂が顔を上げた。

「みんなを隠せば済むと思ったけど、私がいちばん難しい。借りてくれとは言えないよ」

 源六が何か言いかけた。房江はその隣へ椅子を戻した。客を囲まないよう、少し離して。

 律は茶を飲み切った。

 房江は空いた湯飲みへ手を出さなかった。

「一晩、泊まれますか」

 菜穂の鉛筆が止まった。

「扉は試せました。今度は、約束が守れるかを試したいです。仕事をして、終わって出てきて。それで決めます」

「お腹が空いても?」

 房江が聞いた。

「僕から言います」

 源六が急須を膝へ下ろした。

 房江は頷き、菜穂が手帳の空いた頁を探すのを待った。

「明日の九時まで。有償の試泊にしましょう」

 菜穂が料金を書いた。

 仕事中は入らない、呼ばない、返事をしない。タップは昼間、録音を避ける。家事は頼まれた分だけ。

「時報は一文」

「句点を打たなければ」

「二十文字まで」

 定吉の小窓が閉まった。

 菜穂は六か月の契約説明書を律へ渡した。満了後は修繕費も確かめ、続けるなら改めて契約する。

「私が補い続けることはしません」

 署名欄は空けたまま、菜穂は帰った。

 夜八時、旧帳場に『昼寝中・起こさないで』が掛かった。

 換気扇を回しても、律から苦情はなかった。二枚の扉は働いている。

 十時。夕食に買ってきたパンの袋が、食卓に残っていた。

 房江は献立帳を開いた。汁物なら、この時間でも。

「お腹、空いてないかい」

 二枚の扉が続けて開いた。

「録音に入りました」

 律はヘッドホンを首へ下ろしていた。

「ごめんよ。パンだけだったから」

「お腹が空いても、呼ばない約束でした」

 房江は帳面を閉じた。

「朝までに録り直します。ただ、次も入ったら、借りられません」

 扉が閉まった。

 房江は玄関へ向かった。菜穂を呼べば、今からでも来るだろう。

 框の手前で止まり、食堂へ戻った。

「口を縛る?」

 絹代が靴紐を差し出した。

「声は口から出てるのかね」

 三人で房江の口を見た。誰も紐を結べなかった。

 源六と献立帳の誤字を探した。『大恨を薄く切る』を見つけ、絹代が肩を震わせた。

 房江は笑わなかった。扉の向こうでは、まだ録れていないかもしれない。

 針が十一時を過ぎた。

 水を取りに出た律が、流しの前で長く目を閉じた。腹が鳴った。房江の膝に力が入ったが、彼は水だけ飲んで戻った。

 今、謝れば。それも声になる。

 房江は自分の椅子を、扉の見えない側へ運んだ。

 帳面を一頁めくるたび、時計を見た。源六が同じ誤字を三度指した。

 零時前、札が裏返った。

『食事は残してください』。

 房江は椅子の背をつかんだ。

 律が出てきた。

「これ、今から食べたい、にはなりませんか」

「ならないよ。残す食事がない」

「では、夜食の相談をしても?」

 源六が勢いよく献立帳を開いた。

 律は座ってから言った。

「録り直せました」

 房江は握っていた背を放した。指の跡などつかない椅子を、掌で撫でた。

 翌朝、律は源六に教わって汁物を作り、最後の確認へ入った。

 八時五十分、菜穂が来た。

 房江は夜の失敗を話した。

「駄目なら、今日から売る話をしておくれ。あんたの休みまで積み立てなくていい」

 菜穂は売却相談の封筒を食卓へ置いた。

 九時、扉が開いた。

「今朝の確認は、駄目でした」

 房江は封筒を見た。

「時報をなくしてください」

 定吉の小窓が開いた。

「二十文字でも?」

「九時を僕に教えましたね。鐘は扉の外でした。でも説明は、耳元でした」

 定吉は文字盤を両手で隠した。

「時刻を知らせない時計を、置いておくんですか」

「針は見ます」

「見なかったら?」

「必要なら聞きます」

 小窓が閉じかけた。

 房江は時計の前へ行った。

「私も、聞かれるまで待ったよ」

 隙間から顔が出た。

「一度、失敗なさった」

「した。あんたにも、してほしいとは言えない」

 菜穂が封筒を手元へ引いた。

「久世さん、返事を待ってもらうのは、ここまでにします」

 房江は頷いた。定吉の窓をこじ開けることはしなかった。

 振り子が動く。定吉はその往復を見ていた。

「札を、貸してください」

 源六が『お茶はセルフで』を差し出した。

「そちらではなく、昼寝のほうを」

 房江が旧帳場から外してくると、定吉は小窓の内側へ掛けた。

『昼寝中・起こさないで』。

「聞かれたら起きます。針は動かします」

 房江は窓枠から手を離した。

 律が菜穂へ向き直った。

「この条件なら、借りたいです。夜の仕事はできました。ただ、失敗が続くなら住めません」

「その日のうちに話す。続けられない場合の退去も、書面で決めましょう」

 菜穂は封筒を鞄へ戻し、契約書を出した。

 条件を確かめ、六か月の契約に署名が入った。

 売却相談の開始を取りやめる電話のあと、菜穂は雨樋と屋根の部分修理を、既存の積立から発注した。

「その点検日は、僕が立ち会えます」

 律が言うと、菜穂は手帳の線を一本消した。

 昼には五脚の椅子が戻った。

 律が汁物を温め、菜穂がご飯をよそった。柱時計は十二時を打ち、黙った。

 源六が見上げる。

「今、何時だ」

 札が跳ね、小窓が開いた。

「十二時です」

 全員が時計を見た。

「……聞かれましたので」

 絹代が膝を叩いた。

 箸が動き始めると、食堂は初めて本当に静かになった。

 房江は律の茶碗を見た。あと二口。

 前掛けに両手を置く。

 一口が減り、律が汁を飲んだ。

 まだ待った。

「おかわり、お願いできますか」

「はいよ」

 誰より速く房江が釜の蓋を開けた。菜穂が受け取った茶碗へ、湯気の立つご飯がよそわれた。

『幽霊屋敷、生活音あり』はここで完結です

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