菜穂が玄関を開けると、祖母が天井から逆さに下がっていた。
「どう。いないように見える?」
「かなり、いるように見える」
房江は前掛けの裾を顔から払った。
「今日の人が借りてくれれば、売らずに済むんだろ。幽霊の大家なんて、静かな物件の邪魔じゃないか」
「天井にいる大家は、もっと説明しづらい」
下りようとすると、頭は鴨居を抜けたのに、前掛けの紐が引っかかった。菜穂が踏み台へ手を伸ばす。
「危ない。私が外すよ」
「じゃあ、お願いします」
房江は紐をほどいた。七十二まで生きて、死んで九年。内見の支度は、自分を片づけるところからだった。
食堂には五脚の椅子があった。菜穂が一脚に鞄を置き、紙を出す。
「久世律さん。自宅で音の編集をする人。詳しい希望は」
「静かにすればいいんだね。受験生だって置いた家だよ」
紙が広がる前に、房江は台所へ向いた。
「源六、今日は茶もなし」
「その受験生に、夜食の鐘を鳴らしたよね」
菜穂が背中へ言った。
「あれで受かった」
「浪人した」
「次の年に受かった」
源六は空の急須を抱えていた。
「寒かったろう。座れ」
菜穂へ椅子を引いた途端、割烹着が白く濃くなった。透けていた戸棚の木目が見えなくなる。
こぽ、と湯を注ぐ音がした。
「お湯は私が沸かすね」
菜穂がケトルを出す。源六の急須からは何も出ない。
「今日は、それもやめておくれ」
房江が言うと手は止まった。音は続く。
「手だけじゃない。飲ませようと思うのも」
「冷えておったら」
「私だって気になるよ」
源六は菜穂から目をそらし、戸棚の節を睨んだ。ようやく音が消え、割烹着の向こうに木目が戻った。
階段が、たん、たたんと鳴った。
「歓迎の踊りは何分?」
絹代が手すり越しに尋ねる。
「零分」
「短いね」
「ないってこと」
柱時計の小窓も開いた。
「内見は午後二時。現在十一時四十二分。ただし三分進めてあるので」
「定吉、説明はいらない」
「先に申さないと、あとで信用に関わります」
房江は食堂へ三人を集めた。定吉は時計から首だけ出した。
「今日は全員、おとなしく死んでいておくれ」
「客が来るのに?」
「来るから」
誰にも用を向けなければ、家の隅で薄れていられる。歓迎や世話を始めた途端、姿も音も出てしまう。客のない今朝は静かだったのに、菜穂が来ただけでこの有様だ。
房江は戸棚から木札を出した。
『昼寝中・起こさないで』。
夜勤の下宿人が使っていた物だ。
「これを掛けておこう」
「お客さんを寝かせるの?」
絹代に聞かれ、房江は自分の首へ掛けた。
「私を」
源六が裏返す。
『食事は残してください』。
「裏は見ないでおくれ」
「寝ていても注文はするのか」
「私の札じゃないよ」
「私たちのこと、先に言わないの?」
絹代が菜穂を見た。
「まず部屋を見てもらって、それから説明する。ただし、音に違う理由をつけるのはなし」
「出さなきゃいいんだ」
房江は札を外した。
「時計は動かしていいだろう」
定吉が文字盤へ手を添える。
「喋らなければね」
「止められると、誰も時刻を聞きに来ませんので」
小窓が半分閉まった。房江は振り子が動いているのを確かめた。
「時計まで隠しゃしないよ」
小窓が少し戻った。
菜穂は、まだ読まれていない希望の紙を脇へ置き、修繕見積書を並べた。雨樋、屋根の部分補修、電気設備の点検。最後に売却相談の封筒が出た。
「明日の朝には、売る話を始めるか決める。解体して土地を使う前提の相手だから」
房江は封筒へ伸ばしかけた手を止めた。
「修理代は足りるのかい」
「予定の分は積立がある。でも空き家の税金と点検費は私の給料。来年も同じにはできない」
「また下宿にすれば、八人」
「八人分の水漏れの電話、仕事中には取れないよ」
菜穂が手帳を開いた。土曜の欄に、樋の立ち会い、畳の搬出、掃除、と小さな字が詰まっている。
房江は見積書を引き寄せようとした。指が紙に沈んだ。家の椅子や釜には触れるのに、菜穂が持ち込んだ物はつかめない。
「一棟なら、日々の管理は住む人に頼める。私が来る日も決められる」
「来たくないわけじゃ、ないんだね」
「来ない日もほしい」
房江は手帳から手を引いた。
「じゃあ今日は、掃除は私らがやる。あんたは書類を頼む」
菜穂は封筒を見積書と揃え、空いた椅子に座った。
窓が開き、十一月の風が五脚の椅子の間を抜けた。
房江は四脚を壁際へ寄せ始めた。家の椅子は、生きていたころと同じ重さでついてくる。
「これもか」
源六が自分の椅子に手を添えた。
「一人で借りるなら、広いほうがいいだろう」
絹代も一脚を運んだ。菜穂は書類を持って立ち、最後の一脚を空けた。
房江はその背をつかんだ。座りかけてやめ、客の側へ少し引いておく。
「あと二時間ある」
前掛けを結び直し、菜穂を玄関へ促した。
「まず、いらっしゃいを言わない練習からだね」
菜穂が玄関を開け直した。
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい。寒かったろう」
房江は口を押さえた。
二度目は黙れた。代わりに急須と階段が鳴り、時計が「遠いところを」と言った。
「一人ずつ失敗してくれる?」
房江は源六に献立帳の誤字探し、絹代に靴紐の結び直しを命じた。
「定吉は、声を出さずに秒を数えて」
「私を呼ぶときは?」
「今日は呼ばない」
小窓が閉まりかけた。
「用があれば呼ぶよ」
隙間から頷く顔が見えた。
房江は食堂脇の押し入れへ入った。菜穂が盆へ湯飲みを載せる。
「その縁の欠けた」
言いかけて口を結んだ。菜穂は取り替え、戸を閉めた。
二時ちょうど、久世律が来た。小さな鞄と畳んだ三脚を持っている。
「床の音も確認したいので、スリッパなしでいいですか」
厚い靴下に履き替え、廊下を三歩進んで止まった。
「冷蔵庫は動いていますか」
「いまは切っています」
「換気扇をお願いできますか」
低い唸りが押し入れまで届いた。律は壁へ近づき、離れ、録音機を三脚に据えた。
「確認用に録っても?」
菜穂が頷いた。
階段で靴の金具が一度鳴った。
律が見上げ、絹代が足を抱えた。房江も膝を動かすのをやめた。
換気扇を回したまま、二人は旧帳場へ入った。道路工事が続いた年、夜勤の下宿人のために内扉を足した部屋だ。
「内窓も閉めて試せますか」
留め具が鳴り、扉が二枚、順に閉じた。
二人の声が消えた。
房江は肩を下ろした。あの大工には高いと言った。今なら、あの請求書にも頷いてやれる。
源六が押し入れへ来た。
「誤字がない」
房江はもう一度探せと手を振った。
「茶ぐらい出してもよかろう」
首を横に振る。
「客が自分で喉の渇きを言うとは限らん」
源六は急須を戸棚へしまい、両手を膝の下へ入れた。
こぽ、と鳴った。
房江は両手を振った。源六は目をつぶった。
こぽこぽ、と続いた。
旧帳場の外扉が開いた。
「いま、水の音がしましたが」
「配管です」
菜穂が答えた。
房江の手が止まった。
「お湯を使っているんですか」
菜穂は台所を見て、首を振った。
「すみません。配管ではありません。今の説明は間違いです。この家にいる者について、お伝えすることがあります」
律は録音機を止めた。
「その前に、同じ音をもう一度聞けますか」
房江は源六を指した。源六は空の両手を見せたが、律が食卓へ来ると、椅子を譲ろうと腰を浮かせた。
こぽ。
律が止まる。源六も止まる。
「そこに座ってみていただけますか」
菜穂が座った。音はしない。
律が代わると、右脇で勢いよく湯が注がれた。
一歩左へ寄れば、音も左へ移った。
「ついてきますね」
「……はい」
菜穂が答えた。
「家の音を聞きに来たのに、音のほうが僕を見ています」
源六は困り果て、食器棚から木札を出した。昔、下宿の食堂で使った『お茶はセルフで』だ。自分の胸へ掲げる。
音が止まった。
房江は思わず戸を開けかけた。
律が首を傾げる。
「終わりました?」
源六は嬉しそうに頷き、客へ湯飲みの場所を示した。
こぽこぽこぽ。
房江は額を戸につけた。セルフの案内まで給仕になるのか。
律が録音機を鞄へしまった。
「音の出方は気になります。でも、住めるかどうかとは別です」
菜穂が頷いた。
「説明を聞いていただけますか」
「何が出していて、止められるのか。それが分からないうちは、候補には戻せません」
房江は敷居へ膝を進めた。
売却相談の封筒が、食卓の端に見えた。
自分が出れば、音の主は分かる。止められるのかと聞かれたら、何と答える。
戸を握る指に、木の角が食い込んだ。
柱時計が一つ鳴った。
「半です」
定吉の顔が文字盤の下から出ていた。
律が振り向く。
定吉は口を押さえ、それでも指の間から付け足した。
「これは時刻であって、茶の追加ではありません」
「今、時計が喋りました?」
「はい。亡くなったあとも、この家に住んでいる人たちです。時計の中にも一人」
菜穂は玄関への通路を空けた。
「お帰りになっても大丈夫です」
源六は木札を下ろした。絹代は靴を抱えたまま動かない。
定吉だけが律の腕時計を覗いた。
「なお、こちらは三分進めてありまして」
「定吉」
菜穂が呼ぶと、小窓が止まった。
「いま、合わせて」
定吉は文字盤へ手を戻した。長針が三目盛り下がる。律が腕時計を見せ、菜穂も頷いた。
小窓は開いたままだった。
房江は戸の隙間を狭めた。
律の靴下が廊下を擦る。
足音は玄関へ向かわず、柱時計の前で止まった。
「もう一度、お話しいただけますか」
律が頼むと、柱時計の小窓が大きく開いた。
「ただいま、正しい時刻へ合わせました。今後は文字盤どおりに」
「定吉さん、そこまで」
菜穂が手を上げた。律は鞄を指した。
「録音は止めています。声を勝手に使ったりしません。ただ、面白い音と、住める家は別です」
房江は戸を握り直した。
「今のところ、引っ越し業者には連絡できません」
その声は押し入れにも届いた。
房江は敷居を越えた。
「大家をしていた房江です。隠れていて、ごめんなさい」
頭を下げると、前掛けの紐が膝へ落ちた。結び直す間、誰も話さなかった。
「湯を注いでいたのは源六。階段にいるのが絹代。時計が定吉。私を入れて四人です」
絹代が靴を抱えたまま会釈した。
「お茶は、飲む?」
「いただきます」
菜穂が台所へ立った。
房江は壁際から椅子を戻した。源六は客の隣へ来たが、急須を背中に隠した。
「階段の一音にも気づいたんだね。仕事どころじゃないだろう」
「あれは、誰が帰ったのかと思ったんです」
「帰った?」
「実家が旅館で。足音で家族とお客さんを聞き分けていたので」
律が携帯電話を見せた。子供が座布団を運んでいる。積みすぎて靴しか見えない。
「僕です」
「撮る前に止めてやればいいのに」
「母も写真を見て、そう言いました」
菜穂が茶を置くと、律は両手で湯飲みを包んだ。
「今の部屋は、誰も帰ってこないのに、隣の設備だけ一晩中働いています。低い振動が編集する音に混じる。止まったかと思うと、また始まる」
「それで、静かな家を」
「静かな仕事部屋を。そこを出たら、台所が動いているぐらいが好きです」
房江は源六を見た。急須が背中から少し出た。
「ただし、僕の横で沸くのは困ります」
急須が引っ込んだ。
菜穂が朝の紙を広げた。
『録音・編集に使える静かな一室が必要』。
「私、静かな家を探してる人、としか言わなかった」
「その先を聞かずに、茶を止めに行ったんだよ」
房江は続きを読んだ。作業時間、通信環境、運ぶ机の寸法。机はもう、ここへ入るか測ってもらうのを待っていた。
「では、タップは?」
絹代が階段から降りてきた。
「普段のを三段、お願いできますか」
律が旧帳場へ入り、扉を二枚閉めた。
絹代が踊る。食器棚の硝子が細かく鳴った。
房江は戸口へ寄った。
「どうだい、これなら」
内扉、外扉の順に開いた。
「今、入りました?」
「ここにいたよ」
「耳元で声がしました」
律は部屋の中の椅子を、扉から遠ざけた。
「もう一度だけ、お名前を」
「房江だよ」
返事をした途端、律がヘッドホンを外した。
「椅子を動かしても同じです。扉の外から聞こえるんじゃない」
房江は二枚の戸を見た。あれだけ払ってつけた戸を、自分は開けもせずに通っていた。
「私の声が、いちばん大きい?」
「はい。踊りよりも」
源六が急須を自分の腹へ押しつけた。
「黙っておればいい」
房江は頷きかけた。律は首を振った。
「僕も、ずっと皆さんを見張って仕事はできません」
食卓の紙の上で、机の寸法が途中まで隠れた。
「踊りだけでも、直してみていい?」
絹代が手すりを離した。片腕を広げ、一段目でふらつく。房江は反射的に手すりを押さえた。
「房江さんも離してください」
「私まで伴奏だったのかね」
二人が離れると、次の三段では硝子が鳴らなかった。
律は扉を閉めて聞き直し、戻ってきた。
「今のほうが小さいです。昼間で、録音と重ならなければ」
「録る時間を、先に教えてくれる?」
「前の日に食堂へ書けます」
絹代は靴の金具を指で拭いた。
「休演にも予定表ができるんだね」
菜穂が鉛筆を出した。
「仕事中は、入らない、呼ばない。それで試せますか」
「返事もしない、です」
律が房江を見た。
「電話で僕が、お元気ですか、と言っても」
「元気だよって、答えるね」
「納品物に大家さんの近況が入ります」
源六が顔を伏せた。房江も笑いかけたが、律の手は鞄の持ち手に掛かっていた。
菜穂が物件案内を畳んだ。
「内見はいったん終わりにしましょう。事前にお伝えできなかった条件です。断っていただいて構いません」
房江の後ろには、売却相談の封筒があった。
「静かな家、という説明は取り下げます」
菜穂が顔を上げた。
「みんなを隠せば済むと思ったけど、私がいちばん難しい。借りてくれとは言えないよ」
源六が何か言いかけた。房江はその隣へ椅子を戻した。客を囲まないよう、少し離して。
律は茶を飲み切った。
房江は空いた湯飲みへ手を出さなかった。
「一晩、泊まれますか」
菜穂の鉛筆が止まった。
「扉は試せました。今度は、約束が守れるかを試したいです。仕事をして、終わって出てきて。それで決めます」
「お腹が空いても?」
房江が聞いた。
「僕から言います」
源六が急須を膝へ下ろした。
房江は頷き、菜穂が手帳の空いた頁を探すのを待った。
「明日の九時まで。有償の試泊にしましょう」
菜穂が料金を書いた。
仕事中は入らない、呼ばない、返事をしない。タップは昼間、録音を避ける。家事は頼まれた分だけ。
「時報は一文」
「句点を打たなければ」
「二十文字まで」
定吉の小窓が閉まった。
菜穂は六か月の契約説明書を律へ渡した。満了後は修繕費も確かめ、続けるなら改めて契約する。
「私が補い続けることはしません」
署名欄は空けたまま、菜穂は帰った。
夜八時、旧帳場に『昼寝中・起こさないで』が掛かった。
換気扇を回しても、律から苦情はなかった。二枚の扉は働いている。
十時。夕食に買ってきたパンの袋が、食卓に残っていた。
房江は献立帳を開いた。汁物なら、この時間でも。
「お腹、空いてないかい」
二枚の扉が続けて開いた。
「録音に入りました」
律はヘッドホンを首へ下ろしていた。
「ごめんよ。パンだけだったから」
「お腹が空いても、呼ばない約束でした」
房江は帳面を閉じた。
「朝までに録り直します。ただ、次も入ったら、借りられません」
扉が閉まった。
房江は玄関へ向かった。菜穂を呼べば、今からでも来るだろう。
框の手前で止まり、食堂へ戻った。
「口を縛る?」
絹代が靴紐を差し出した。
「声は口から出てるのかね」
三人で房江の口を見た。誰も紐を結べなかった。
源六と献立帳の誤字を探した。『大恨を薄く切る』を見つけ、絹代が肩を震わせた。
房江は笑わなかった。扉の向こうでは、まだ録れていないかもしれない。
針が十一時を過ぎた。
水を取りに出た律が、流しの前で長く目を閉じた。腹が鳴った。房江の膝に力が入ったが、彼は水だけ飲んで戻った。
今、謝れば。それも声になる。
房江は自分の椅子を、扉の見えない側へ運んだ。
帳面を一頁めくるたび、時計を見た。源六が同じ誤字を三度指した。
零時前、札が裏返った。
『食事は残してください』。
房江は椅子の背をつかんだ。
律が出てきた。
「これ、今から食べたい、にはなりませんか」
「ならないよ。残す食事がない」
「では、夜食の相談をしても?」
源六が勢いよく献立帳を開いた。
律は座ってから言った。
「録り直せました」
房江は握っていた背を放した。指の跡などつかない椅子を、掌で撫でた。
翌朝、律は源六に教わって汁物を作り、最後の確認へ入った。
八時五十分、菜穂が来た。
房江は夜の失敗を話した。
「駄目なら、今日から売る話をしておくれ。あんたの休みまで積み立てなくていい」
菜穂は売却相談の封筒を食卓へ置いた。
九時、扉が開いた。
「今朝の確認は、駄目でした」
房江は封筒を見た。
「時報をなくしてください」
定吉の小窓が開いた。
「二十文字でも?」
「九時を僕に教えましたね。鐘は扉の外でした。でも説明は、耳元でした」
定吉は文字盤を両手で隠した。
「時刻を知らせない時計を、置いておくんですか」
「針は見ます」
「見なかったら?」
「必要なら聞きます」
小窓が閉じかけた。
房江は時計の前へ行った。
「私も、聞かれるまで待ったよ」
隙間から顔が出た。
「一度、失敗なさった」
「した。あんたにも、してほしいとは言えない」
菜穂が封筒を手元へ引いた。
「久世さん、返事を待ってもらうのは、ここまでにします」
房江は頷いた。定吉の窓をこじ開けることはしなかった。
振り子が動く。定吉はその往復を見ていた。
「札を、貸してください」
源六が『お茶はセルフで』を差し出した。
「そちらではなく、昼寝のほうを」
房江が旧帳場から外してくると、定吉は小窓の内側へ掛けた。
『昼寝中・起こさないで』。
「聞かれたら起きます。針は動かします」
房江は窓枠から手を離した。
律が菜穂へ向き直った。
「この条件なら、借りたいです。夜の仕事はできました。ただ、失敗が続くなら住めません」
「その日のうちに話す。続けられない場合の退去も、書面で決めましょう」
菜穂は封筒を鞄へ戻し、契約書を出した。
条件を確かめ、六か月の契約に署名が入った。
売却相談の開始を取りやめる電話のあと、菜穂は雨樋と屋根の部分修理を、既存の積立から発注した。
「その点検日は、僕が立ち会えます」
律が言うと、菜穂は手帳の線を一本消した。
昼には五脚の椅子が戻った。
律が汁物を温め、菜穂がご飯をよそった。柱時計は十二時を打ち、黙った。
源六が見上げる。
「今、何時だ」
札が跳ね、小窓が開いた。
「十二時です」
全員が時計を見た。
「……聞かれましたので」
絹代が膝を叩いた。
箸が動き始めると、食堂は初めて本当に静かになった。
房江は律の茶碗を見た。あと二口。
前掛けに両手を置く。
一口が減り、律が汁を飲んだ。
まだ待った。
「おかわり、お願いできますか」
「はいよ」
誰より速く房江が釜の蓋を開けた。菜穂が受け取った茶碗へ、湯気の立つご飯がよそわれた。