「覚えていてほしい」
僕はナギの手を、両手で包んだ。
「忘れていいとは、言えない。一緒に暮らしたことも、恋人になったことも、残してほしい」
指が、かすかに動く。
返事は急がせなかった。
「でも、そのために苦しみ続けてほしいわけじゃない」
「……修理を、受けたいです」
途切れながら届いた声に、僕はうなずいた。
「うん。もう、待たせない」
それで終わりにするはずだった。
なのに、言葉が出てしまった。
「あとで記録を見て、また一緒に暮らせたら」
ナギは僕を見た。口を開いて、何も言えずに閉じる。
少し待つと、小さな声が聞こえた。
「そのときの、私に……聞いてください」
つないだ手が、ほんの少し引かれた。
「今、約束を……しないでおきたいです」
恋人になった夜は、本当の答えを聞きたいと言えた。
今はどうだ。
まだ聞いてもいない答えが、こんなに怖い。
「一緒にいたくないって言われても?」
ナギが目を伏せた。長い沈黙のあと、うなずく。
僕がうなずき返すまでには、もっと時間がかかった。
「分かった。ちゃんと聞く」
技師が、もうすぐ点検が終わると知らせに来た。
「愛してる、ナギ」
「愛しています。悠さん」
名前を呼ばれただけで、手を離せなくなった。
ナギが指を伸ばす。
僕が握ったままじゃ、離せない。
分かってる。分かってるんだ。
「うん」
一度だけ返事をして、指を開いた。
修理室の前で名前を確かめ、技師が示した書類を読んだ。
代わりに同意する僕が、何を選ぶのか。起きることと、その危険を、自分の言葉で説明する。
「二人で過ごした記憶と、それにつながる気持ちが消えます。声や姿が同じでも、僕を愛しているとは限りません」
技師がうなずき、名前を書く場所を指した。
ペンの先を当てる。小さな点ができた。
自分の名前だ。何度も書いてきた。
それなのに、最初の線が書けない。
紙の上には、ナギの希望があった。
忘れたくない。それでも、生きたい。
ナギ自身が選んだことだ。
「引き受けます」
あの日の問いに、もう一度答えた。
悠、と書く。
最後の線で手が止まって、インクが少し濃くなった。そのまま、ペンを置いた。
技師は書類を確かめ、ナギにも修理を望むか聞いた。
「お願いします」
僕は、その声を聞いてから戸口を離れた。
扉が閉まる。
表示が光った。
――消去開始。
名前を書いた手を、もう片方の手で押さえた。
まだ、ナギの苦しみが終わったという知らせはなかった。
その夜は、施設の休める場所で過ごした。
翌朝、待合室に技師が来る。
「修理は成功しました。もう苦しんでいません。今回の故障で動けなくなる危険も、なくなりました」
僕は、止めていた息を吐いた。
ひざの上の手から力が抜ける。
しばらくして、自分が泣いていることに気づいた。
助かった。
よかったね、ナギ。
そう言って、二人で喜びたかった。
報告書には、修理後の動きが安定していると書いてあった。記憶も、予定どおり消えていた。
「会えますか」
「ナギさんが会いたいか確かめてから、ご案内します」
「お願いします」
技師が席を立つ。
僕は、一緒に帰るつもりで持ってきた荷物を足元へ寄せた。
中には二人分の上着がある。
まだ、どちらも取り出せなかった。