午前十一時。面会室に入ると、検査着のナギが顔を上げた。
「はじめまして。どうぞ、お掛けください」
同じ声だった。
僕は返事をする前に、いつものように隣へ行きかけた。
「こちらの椅子をお使いください」
向かいの席を示される。
ああ、そうか。
今日は、ここなんだ。
「悠です」
「悠さん。私に会いたいと聞きました」
初めて呼ぶ名前を、確かめるような言い方だった。
机の上に、何度も握った手がある。
触れかけた自分の手を、ひざに戻した。
「今、苦しくない?」
「はい。検査でも問題はないそうです」
「よかった」
その先が出てこない。
ナギは急がせず、僕が用件を話すのを待っていた。
ひざの上で、端末の入ったかばんに触れた。
「修理する前のこと、少し知りたい? ナギと、僕のこと。聞きたくなければ、話さない」
ナギは考えてから答えた。
「聞きたいです。私が、あなたとどう過ごしていたのか」
「一緒に暮らしてた。二人で部屋を選んで、テーブルを窓辺に置いた」
ナギがうなずくのを待つ。
「恋人だった。僕は今も、ナギを愛してる」
机の向こうで、指が組み直された。
「そうでしたか」
困っているのは分かった。
でも、懐かしそうではなかった。
「動画や録音もある。でも、今、見てほしいって話じゃない」
かばんから手を離した。
「これからも一緒に暮らしたいと思ってる。……ナギは、どうしたい?」
本当の答えを聞く。そのために聞いたんだ。
そう思っても、うなずいてほしくて、顔を見つめてしまう。
ナギが目を伏せた。昨日と同じしぐさだった。
「私は、あなたのことをまだ知りません」
「うん」
「前に恋人だったからといって、今も恋人として暮らすことはできません。しばらくここで体の調子を見てもらって、そのあとも、施設の方と相談して自分の生活を決めたいです」
僕は机の端を握った。
それなら、もう一度。最初から、僕を知ってもらえば。
のどまで出かかった言葉を、飲みこんだ。
ナギは組んだ手をほどいた。でも、その手は僕のほうへ伸びてこなかった。
「本当の希望を言ってくれて、ありがとう」
声が震えた。
ナギは何か言いかけて、やめた。きっと大丈夫、なんて約束はしなかった。
「会ってくれて、ありがとう」
僕が椅子を引くと、ナギも立ち上がった。
「お気をつけて」
知らないお客さんを見送る声だった。
最後まで聞いてから、僕は頭を下げた。
その日の午後と翌朝で、部屋を出るための荷造りをした。
僕の物とナギの物を、別々の箱に入れる。
ナギの荷物は、施設の人に聞いてもらい、本人の希望どおり施設へ送ることになった。中身を書いた紙も入れた。
動画や録音は入れなかった。残してあることだけを伝えた。
見たくなったら、ナギから言ってもらおう。
棚の一番上に、青いカップが残っていた。
背伸びして、取る。
王様を迎えに来たよ。
いつもの冗談は、声にならなかった。
洗って乾かし、白い紙で包む。割れないように、ほかの食器の間へ入れた。
翌日、ナギの箱は施設へ、僕の箱は新しい住まいへ送った。テーブルと二脚の椅子も、部屋を返す日までに運んでもらう手はずを整えた。
部屋の図面を畳む。ここにテーブルを置きたいと書いた文字を、内側にした。
二人分のマットを片づけて、テーブルを拭く。
向かいの椅子には座らなかった。
椅子を引いても隣を通れるだけの場所は、今も空いている。ナギの希望どおりだった。
記録の入った端末を、かばんにしまう。
誰にも見せない約束も、愛している気持ちも、僕の中には残っていた。
ナギは施設で、体の調子を見てもらっている。
もう、苦しんでいない。
かばんを持って、戸口に立った。
部屋に向かって口を開きかけて、閉じる。
一人で外へ出た。
鍵をかける音が、小さく響いた。